風を従へ板東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か   石川一成(昭和4〜昭和59)
『麦門冬』(昭和50)所収。自然と対峙しつつ、自然と一体化する作者。板東太郎(利根川)は、原風景として心に流れている。


緑みどりの樹間にすらりと夕暮るる片山広子に似しという沙羅   宇都宮とよ(昭和5〜)
『エルキャピタンの雲』(平成7)所収。漢字と仮名の使い分け、すらりと夕暮るるという描写 、そして固有名詞の塩梅。精緻な言葉の連なりが魅力。


孤にかへる冬となりたり蜂蜜が瓶の底より結晶しはじむ   鈴木陽子(昭和5〜)
『乳果』(平成9)所収。互いの境界なくトロリとしていた蜂蜜が、ひんやりと結晶してゆく。そのことを冬の象徴として捉えた初句が印象深い。


天界の小暗きかの日失ひし鏡はどこに何映しゐむ   久家基美(昭和7〜)
「心の花」(平成9年4月号)掲載。一首の中で変幻自在の鏡。それは歴史の中で失われた真実か。あるいは作者自身の分身か。


一日を共に働きし馬の背に流れし汗の塩かたまれる   石川不二子(昭和8〜)
『牧歌』(昭和51)所収。農に生きる暮らしの中から生まれる歌の数々は、まさに作者の汗から生まれた塩のようである。


卑怯なる逃避あるひは成行きに任す勇気を言ひて目を閉づ   白石研蔵(昭和8〜平成23年)
『長髄彦が裔』(平成7)所収。男らしさを考えることは、男のつらさを考えること。何もしないことの卑怯と勇気と。


オホーツクの海を見て立つオホーツクの海もまた見よこの我が姿   今泉進(昭和9〜)
『冬の雷郎』(平成8)所収。見ることは、見られること。小さな自分と大きな海においても、その関係は対等だ。


海に来ても海の匂ひのせぬ浜よああ中立的な思想は非ず   西田郁人(昭和9〜)
死の灰を浴びた福竜丸を詠んだ一首。あえてナマな感想を記した下の句を、上の句の描写 が支えている。


鮮紅の魚卵のぬめり光りながら夕日は沈むビルのはざまに   塩川郁子(昭和10〜)
「心の花」(平成4年8月号)掲載。生命の詰まった魚卵と、沈みゆく夕日との鮮やかな対比。魚卵が、無数の日の出の太陽のようにも見える。


咲きあふれ光を呼びて馬鈴薯の花の大地は天と向き合う   高辻郷子(昭和12〜)
『農の一樹』(平成9)所収。北海道に根を張って生きる作者。そこに生きる者ならではのスケールの大きな自然詠が魅力だ。