米櫃も下駄も卒塔婆も流れ来て又流れゆき大水の川   小花清泉(明治4〜昭和17)
東大哲学科、英文科に学び、小泉八雲、坪内逍遙に傾倒、英詩、神話伝説を研究した。また『英訳万葉集』の訳出・点検に力を尽くした。「あけぼの会」等多くの歌会に出席。熱心に後進を指導した。提出作は明治44年1月号「心の花」より。43年8月8日に大豪雨。東京で18万5000戸が浸水している。


夕闇に風にもまるる樫の葉か折に震ふ魂としも見む   土井晩翠(明治4〜昭和27)
晩翠作詞『荒城の月』が入っている「中学唱歌」は明治34年刊、この作は明治37年4月号「心の花」。初期「心の花」には吉野臥城、佐藤秀信等、仙台近辺に若い熱心な歌人たちが多かった関係で、信綱は幾度か東北に行っている。その折りに晩翠を訪ねたのが最初。


ついばみて孔雀は殿にのぼりけりしろきぼたんの尺ばかりなる   与謝野鉄幹(明治6〜昭和10)
明治26年に直文宅で信綱と逢っているというから古いつきあいである。鉄幹の最初の詩歌集『東西南北』に序文を寄せているのはご存知の通り。「明星」創刊は「心の花」の2年後。提出歌は明治32年4月号「心の花」。


幼きは幼きどちの物語葡萄のかげに月かたぶきぬ   佐佐木信綱(明治5〜昭和38)
提出歌は明治35年8月号「心の花」の作で、『思草』の代表歌の一つ。「清新で、仏蘭西印象派の絵に対するやうな心境をおぼえる」と、のちに斎藤茂吉が賛辞を呈している(昭和23・8『余情』)。「どち」は「同士」の意味。


川に沿ひ山へちらばる町の灯をぬらし滲ましふる小夜しぐれ   川合玉堂(明治6〜昭和32)
文化勲章も受けた著名な日本画家だが、『多摩の草屋』という歌集もあるほど作歌数は多い。提出歌は「心の花」昭和21年1月号。


眼さむれば松の下草を刈る鎌の音さやに聞ゆ日和なるらし   下村海南(明治8〜昭和38)
終戦時の国務大臣兼情報局総裁で、8月15日の歴史的玉音放送実現に大きな役割をたはしたことで知られるが、朝日新聞副社長として個人経営から企業への転換時期に重要な舵取りをした人物でもあった。大正4年に「心の花」入会。歌集が五冊もある。提出歌は天草島での作。


書の中にはさみし菫にほひ失せぬなさけかれにしこひ人に似て   大塚楠緒子(明治8〜明治43)
明治25年、弘綱の門に入り、死後信綱についた。小説、新体詩、美文などに多彩な才能をしめしたが36歳で早世した。美貌の文学少女として早くから有名で、彼女の美貌と才能を惜しんだ漱石の追悼句「有る程の菊拠(な)げ入れよ棺の中」は有名。


ふとおもふ熱海の梅は末ならむさびしき人も一人見にけむ   新村出(明治9〜昭和42)
『広辞苑』の編者として知られる国語学者だが、作歌に熱心な人で、歌集も四冊ある。佐佐木信綱と友人同士だった関係で「心の花」に作品を発表。特に戦後は多い。提出作は、信綱の妻が死去したあとの作。


わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのリンゴ卓の上におく 片山広子(明治11〜昭和32)
明治29年、佐佐木信綱に入門。松村みね子の名でイエーツ等の翻訳も有名。タゴールの詩を最初に紹介したことでも知られる。芥川、堀辰雄らと交友があり堀の「聖家族」のモデル。「心の花」女流を代表する一人。近年、清部千鶴子『片山広子・孤高の歌人』が刊行された。


とほ鳴るやアベイの鐘に風落ちて土曜の夜の霧になりゆく   牧野英一(明治11〜昭和45)
長く東大法学部教授をつとめた刑法学者。提出歌は「心の花」六百号の自編歌でロンドンの歌である。長期にわたって会員で、発表されている作歌数も多い。