病む人の心をおのが心にてその苦しびをいたはりやらむ   三浦守治 (安政4〜大正5)
『病理学解剖』という大著があり、東大医学部教授だった人。森鴎外と仲がよかったという。「心の花」創刊時からの会員で、歌集に『移岳集』がある。専門歌人ではないが、「ますらをぶり」の歌人として知られた。


秋の風大野を吹きてますらをの涙のあとに芥子の花さく   尾崎行雄(安政5〜昭和29)
「憲政の神様」「議会政治の父」として長寿をまっとうした政治家である。信綱が短歌を添削していたので、客分扱いで時折「心の花」に作品を寄稿している。提出歌は大正6年1月号「心の花」の作で、「オータールーにて」との詞書がある。ナポレオンがプロイセン軍に負けたベルギーのワーテルローでの作で、発表 当時、評判になったらしい。


たかぶれる人の心とそゝりたちし石の高どの微塵となりぬ   坪内逍遙(安政6〜昭和10)
明治37年7月号「心の花」に「浦島を作せし顛末」を寄稿して以来、幾度も「心の花」に登場している。提出作は大正12年11月号の関東大震災にかかわる作だが、短歌はこのときの十二首だけのようである。


霜やけのちひさき手して蜜柑むくわが子しのばゆ風にさむきに   落合直文(文久元〜明治36)
東大古典科時代の直文は弘綱に添削を受けたという。『明治大正昭和の人々』には、中国旅行中に直文死去の報に接した思い出が書かれている。提出作は明治33年2月「心の花」のもので、千葉県北条海岸でひとり糖尿病療養中の作。


楡の芽のはる遠からじ赭塗(そほぬり)の喇嘛のほこらにぬるき雨ふる   源高湛(森外)(文久2〜大正11)
『森外全集』に信綱宛書簡が30通あるのをみても分かるように、外と信綱の交友は深かった。短歌、小説、詩、評論を含めて「心の花」への寄稿は多い。提出歌は明治38年5月号の「戦前より」と題された五首中の作で、「喇嘛」はチベットのラマ教のこと。


吾妹子と逗子の浦辺に植ゑし公孫樹老いにけらしな我も老いたり   徳冨蘇峰(文久3〜昭和32)
昭和27年2月号「心の花」の「公孫樹十二詠」中の作。この年もう90歳を越えている。佐佐木雪子の姻戚で、早くから知ってはいたが、蘇峰が伊豆山に住んでいたので、熱海時代に交友を深めたようだ。


十四日オ昼スギヨリ歌ヲヨミニ上根岸迄オイデ下サレ   正岡常規(正岡子規)(慶応3〜明治35)
有名なこの歌をふくむ「はがきノ歌」二十六首は、明治33年3月号「心の花」に掲載されたものである。常規在世中、根岸短歌会は機関誌を持っていなかったので、歌、評論等をおりおり「心の花」に寄稿している。弘綱十年祭に手向けた子規の短冊が残っている。


蔵前に燭し一子相伝の薬練る夜を初時雨する   沢弌(明 治1〜昭和14)
三浦守治と同じくこの人も医者。石榑千亦とともに、歌会「あけぼの会」の長老格でメンバーの指導をした。


大かたはおぼろになりて吾が眼には白き杯一つ残れる   石榑千亦 (明治2〜昭和17)
「心の花」創刊時から没年まで四十余年、この人が実質的に雑誌「心の花」の経営を支えた功労者。海の歌、酒の歌で知られる。歌集に『潮鳴』『海』『』がある。提出歌は近代屈指の酒の名歌。


国々の神のよるてふこの浜に駒の泡かと立つや白波   巌谷小波(明治3〜昭和8)
父親同士が逢って早くからの知人だったようだ。逢ったのは広津柳浪宅で、尾崎紅葉ら「硯友社」のメンバーといっしょだったという。信綱が童謡、唱歌等を作詞をするきっかけは、巖谷小波が主筆をつとめた「少年世界」に寄稿を依頼されてのことのようだ。