曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径   木下利玄(明治19〜大正14)
13歳の年に信綱に師事、「心の花」創刊時からの会員である。岡山県の足守藩の跡継ぎとなり子爵を継いだ。提出歌は大正14年1月号「心の花」所収の作。


ほほゑみて今日の一日も暮れけるよやごとなき身とめであがめられ   九条武子(明治20〜昭和3)
西本願寺大谷光尊の二女。大正5年に「心の花」に入会。提出歌は第一歌集『金鈴』の作で、特殊な立場にいる自身の孤独な内面 生活を、やや自嘲的にうたった独特の作である。


すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は   柳川隆之介(芥川龍之介)(明治25〜昭和2)
横浜の三渓園で知られる原三渓の息子・原善一郎が熱心な「心の花」会員で、芥川は善一郎の中学の同級生だった。そんな関係で、芥川処女短編「大川の水」が 「心の花」に載り、大正はじめに、短歌・旋頭歌等が載ることになった。


朝さめてきびしき寒さ天山に雪降りたりと言ふ声きこゆ   安藤寛(明治25〜平成5)
大正8年に「心の花」に入会。新井洸に師事、のち「あけぼの会」を通して千亦に学んだ。昭和3、40年代の「心の花」編集委員だが、雑誌経営の面 で大いに功績があった。提出歌は故郷・佐賀の天山をうたったもの。


冬深くすでに定めしもろもろの一つの位置のつはぶきの花   前田福太郎(明治25〜昭和49)
大正3年に「心の花」に入会。伊豆下田にあって晩年まで一貫して清新な歌を作り続けた。


武蔵野のくぬぎ林の新(にひ)わか芽のびゆく見つつわが世は経なむ   久松潜一(明治27〜昭和51)
長く東京大学文学部教授をつとめた著名な国文学者。作歌には熱心で歌集もある。信綱の三女と結婚。提出歌は、「心の花」七百号記念号掲載の自選歌。


夕波にのりしままなるかいつぶり島山かげはくらく暮るるに   山下陸奥(明治28〜昭和42)
住友合資会社の上司・川田順の関係で、大正10年に「心の花」に入会。昭和初期に「心の花」編集にかかわったが、昭和4年に「一路」を創刊した。提出作は 第一歌集『春』所収の作。


真裸になれども暑き昼下がり早期供出の米五俵かがる   椿一郎(明治29〜昭和55)
昭和7年「心の花」に入会。千葉県の農民で意識的に「農民の歌」をうたいつづけた。飯田恒治「機関士の歌」、梅沢千丸「金物屋の歌」とともに、戦後の「心 の花」の職業・生活の歌の作り手として独特の位 置をえた。


汝が命成りけんまへの世をかたれ心ふるへて見つむる母に   五島美代子(明治31〜昭和53)
大正4年に「心の花」に入会。早くから母性愛をうたった歌に特色をみせた。提出歌は昭和2年3月号「心の花」に発表された作。信綱夫妻の媒酌によって石榑 茂と結婚。


吹きたわめられつつ青き一むらの蘭が水面とともにゆれゐつ   栗原潔子(明治31〜昭和39)
大正2年16歳で信綱の門に入り、早く頭角をあらわし、当時としては例外的に早い22歳で、第一歌集『潔子集』を刊行。小説を書いた時期もあった。昭和 20年代終わりから「心の花」編集委員。