幾日来ていく日また行く旅ならむ曠野のはてに今日も日は落つ   斎藤瀏(明治12〜昭和28)
陸軍大学を出た根っからの軍人で少将にまでなるが、昭和3年済南事件で詰め腹を切らされ、二・二六事件に連座して軍人生活に終止符を打った。日露戦争従軍 中に書信によって信綱の指導を受け「心の花」に入会。昭和14年「短歌人」を創刊する。斎藤史の父。提出歌は第一歌集『曠野』(あらの)のタイトルとなっ た歌。


鳥うたはず木の葉そよがず清水かれし声なき谷にひとりある思ひ   橘糸重(明治12〜昭和14)
ピアニストとして第1回の芸術院会員になった人で、長く東京音楽学校教授をつとめた。島崎藤村の「家」に曽根として登場する。大塚楠緒子と並んで初期「心 の花」の代表的女流だが、歌集がないのが残念。


立山が後立山に影うつす夕日の時の大きしづかさ   川田順(明 治15〜昭和41)
明治30年、16歳で信綱に入門。信綱がもっとも信頼していた人物で、信綱死去のおりの葬儀委員長もつとめた。住友合資会社総務理事という実業界の中枢に いた実業人。戦後は「老いらくの恋」で知られもした。西行、実朝の研究は今日でも大きな仕事として評価されている。


ぽつねんと頬杖ついて暇あらばただあるべかり老いては殊に   角利一(明治15〜昭和40)
明治44年「心の花」に入会。石榑千亦の没後、「心の花」編集の実質的中心となって、戦中・戦後の困難な時期を支えた。提出作は「心の花」七百号の自選 歌。


やけ跡のつちもめぶきて青みたりほこなき国を春深みつつ   金田一京助(明治15〜昭和46)
アイヌ語の研究等に大きな業績を持つ言語学者。信綱の知人として、「心の花」にしばしば短歌を投稿している。提出歌は昭和22年8月「心の花」に発表され た戦後まもなくの作。


人間のいのちの奧のはづかしさ滲み来るかもよ君に対へば   新井洸(明治16〜大正14)
木下利玄、川田順とともに初期「心の花」を代表する歌人。前川佐美雄に強い影響を与えた。提出歌は、洸の代表作のみならず、大正期歌壇屈指の相聞歌であ る。


あかときは杉の群生にたゆたひて若草山は片明かりせり   安田靫彦(明治17〜昭和54)
小林古径、前田青邨とともに「院展の三羽烏」と称され、文化勲章も受けた著名な日本画家。作歌に熱心で歌集もある。信綱の歌集『山と水と』の題箋を書き (装幀は横山大観)、『作歌八十二年』の装幀をしている。提出歌は昭和21年10月号「心の花」の作で、「奈良にて」と詞書がある。


父の家嗣ぎてつたへよ孫曾孫(まごひこ)に亡びの子では無いといふこと   バチェラー八重子(明治17〜昭和37)
著者はアイヌ出身のキリスト教伝道師。提出歌を含む『若き同族(ウタリ)に』は、「心の花叢書」として昭和6年に刊行され、反響をよんだ。集中には、アイ ヌ語を片仮名表記した短歌もある。


見わたせばまさご路一里人たえて松にゆふ日のかげしづみゆく   相馬御風(明治16〜昭和25)
中学時代から竹柏会に入門、初期の「心の花」に熱心に投稿している。のち「明星」に入会、さらに岩野泡鳴らと「白百合」を創刊。「早稲田大学」校歌の作詞 者である。


踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前   柳原白蓮(明治18〜昭和42)
柳原伯爵家に生まれ、北小路資武と結婚するが離婚、ついで九州の炭坑王伊藤伝右衛門と結婚「筑紫の女王」とうたわれるが社会運動家宮崎隆介と恋愛、家を出 て社会をおどろかせた。近年、林真理子の小説『白蓮れんれん』が出た。提出歌を含む歌集『踏絵』は、竹柏会刊。