■略歴
佐佐木信綱〈ささき・のぶつな〉1872・6・3〜1963・12・2
三重県石薬師(現、鈴鹿市)生まれ。国文学者、歌人・佐佐木弘綱の長男。母は光(みつ)。1882(明15)年に上京。1888年、東京大学古典科卒。
1890年から父と共著で『日本古典全書』全12巻(1890・10〜91・12 博文館)を刊行、国文学者としてのスタートをきった。軍歌、唱歌も二十代までの作が多く、「勇敢なる水兵」(1895年)、「夏は来ぬ」(1896年)等が知られている。1896年に歌誌「いさゝ川」を、1898年に「心の花」を創刊。短歌革新運動期にいち早く雑誌を創刊し、ジャーナリストの才能を発揮して短歌史を新派の側に動かしたことが信綱初期の功績。明治期「心の花」は竹柏会の結社雑誌でありつつ総合雑誌的色合いを強くもっていて、このことが短歌史の新たなる展開をうながす大きな力となった。
1903(明36)年、第一歌集『思草』を刊行。5年、東京帝国大学文科の非常勤講師となって上代歌謡、『万葉集』を教えることになり、その方面の著作・論文が多くなる。9年に『万葉集抄』、10年に『元暦校本万葉集』、11年に『梁塵秘抄』を発見、紹介。この前後から文献学者として古本、古写本の発見、紹介の仕事が多くなる。とくに新発見の『梁塵秘抄』は北原白秋や斎藤茂吉らに影響を与えた。17年、『日本歌学史』(10・10 博文館)等で学士院恩賜賞受賞。『校本万葉集』全二五巻(25・3 刊行会)を出版。信綱や橋本進吉ら五人で十余年をかけた一大プロジェクトである。『万葉集』古写本一三五部すべてを校合した4882頁の大冊である。これによって『万葉集』研究の基礎が完成した。31年、『万葉秘林』一一種により朝日賞受賞。37年、横山大観らとともに第一回文化勲章受章。
戦中は『支那事変歌集』、『愛国百人一首』等、戦時出版に積極的にかかわる一方、『建礼門院右京大夫集』、『西行全集』、『大隈言道集』といったテキスト校訂作業に精を出している。『建礼門院右京大夫集』の名は今ではよく知られているが、当時はまだ顧みられることのなかった歌集で、近代では信綱の『歌学論叢』(1908・9 博文館)が最初にとりあげたものだった。この本を経て戦後刊行の『中古三女歌人集』(48年)によって広く知られるようになる。44年、戦火が激しくなった東京を去り、熱海市西山に移住。晩年を熱海の地で過ごすことになった。
戦後は、万葉三部作『評釈万葉集』、『万葉集年表』、『万葉集事典』執筆等、著述中心の日々を送った。晩年の仕事に『野村望東尼全集』(58年)があるが、『近世和歌史』(23年)の後を書くべく江戸期和歌の資料を集めつつ死を迎えた。急性肺炎のために熱海市の自宅で死去。享年91歳。遺詠に〈西上人長明大人(うし)の山ごもりいかなりけむ年のゆふべに思ふ〉他がある。生涯にわたって敬愛したのが西行であり、『山家集』等西行作品のテキスト校訂を五回おこなっている。
91年間の生涯に、多くの歌人を育成した。三世代に分けるとわかりやすいだろう。1)石榑千亦(いしくれちまた)、川田順、木下利玄、新井洸(あきら)、片山廣子、九条武子、斎藤瀏(りゅう)、柳原白蓮ら。2)前川佐美雄、五島茂、五島美代子、栗原潔子、安藤寛、遠山光栄、真鍋美恵子、佐佐木治綱、佐佐木由幾ら。3)石川一成、石川不二子ら。
(佐佐木幸綱、篠弘・馬場あき子・佐佐木幸綱監修『現代短歌大事典』三省堂、2000年刊)より
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