プロフィール

先生の秀歌をあげるとしたならば、どの歌を選ぶか。何回か、このような問いに接したことがある。その度ごとに私は次の二首をあげることを常として来た。
  真砂路は汐気しめらひ小(さ)夜風のやや動き現(うつつ)の夢(ヽ)ゆるがすも  『山と水と』
  花さきみのらむは知らずいつくしみ猶もちいつく夢(ヽ)の木実(このみ)を 昭和38年1月作
 ともに夢(ヽ)の文字が入っており、先生が無限な学問の世界に分け入った志のあり処(ど)をあざやかに検証することができると思うのである。前者は故郷の月光の浜辺を逍遙して、自己を解放しつつ、しかもなお「現の夢」に関わり続ける先生。現の夢を揺がしたものは、伊勢の国に留まって、世に埋もれた方が、どんなにか、気随であったろうとする憶いと、あくまでも、学問の開拓者であろうと素心との交錯かも知れない。後者は死に先立つ二年前の作品。凄絶なまでの学問への執心が感得される作品である。先生の勤励ぶりを伝えるかずかずの挿話は、先生が生れながらにして学問一途の人であったかを立証するように語り継がれている。それは結果には違いない。しかし、先生が自己をそのように律してゆく道程で、圧殺しようとした何者かに、私は注目しないわけにはゆかない。
 私の念頭に弘綱先生のことがある。先生の父君に対する孝心の発露は、創刊以来の「心の花」を繙けば、直ちに肯かれよう。しかし、同じ学問の道を歩んだ先生が、父を超えようとする強い決意を抱かなかったと考えるとこれも嘘になってくる。趣味の人でもあった父母の三味線の合奏を壁越しに聞きながら、「父の如くならじ」と烈しい反撥を覚えて、学問に向っていった少年信綱の面貌を私は胸中に描いている。父君と同じ趣味人の血が、先生の胸中に騒ぐ日もあったであろう。次の『常盤木』の歌、
  雑音に心とられて危ふくもわがゆく道をたがへむとせし
  われはわれの勝利者なりき然れどもいとも悲しき勝利者なりき
 に、そのような自己を超克した時に感じた複雑な思いを私は読みとろうとしている。
  骰子(さい)は落ちぬわれ勝ちたりと思ふ時おつる涙のとめむすべなし 『常盤木』
 も勝利の喜びの涙と取るよりは、封じこめてしまった放恣な心情に対する愛惜の涙と解した方が自然である。だから、学問の道にわけ入っても懐疑や自嘲が絶えずつきまとう。
  生ける文字か死せる文字かも読みゐたりし書(ふみ)をふと閉ぢて疑ひにける 『常盤木』
  われは今われをぞ見たる悲しくもよろぼひまろぶ我を見たりき  同前
 と詠ぜずにはいられなかった。このような歌を背景にして、われわれは『常盤木』巻頭の、
  人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青きかがやき
 という歌にかえってゆかねばならない。この一首を取り出して、先生の肯定的人生観を云々することはたやすい。しかし、この結社につながるものとして、ここに到達するまでに払われた先生の自己超克のはげしさを考えてみなければならないと考える。歌集に採録は見なかった明治末年の歌が私の心に残る。
  丈夫(ますらお)は光をぞ恋ふる常闇(とこやみ)の道の長手は歩むに堪へず
 と混沌のなかに苦悩する自己を詠ってから、一つの確立を『常盤木』において見出すまでの長い道のりを思う。こう考えてくると、明治三十一年の、
  願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや
 も、「願はくは」を重視せねばならなくなってくる。自己の苦悩だけに身を委ねてはならない。他人の苦悩に関わってゆく力を養いたい、持ちたいという念力を読みとらなければならないと考える。他の門流のいうごとく上意下達的な思い上りの歌ではない。
『思草』、『新月』、『銀の鞭』、『常盤木』と読み進んでくるならば、自恃と自嘲に身をさきながら苦悩する先生の魂の苦闘の跡をおのずと知るに違いない。私は特に『常盤木』を愛好する。秀れた歌集として『新月』と『山と水と』を推すが、先生の正気と狂気の相剋の激しさを見、先生の心に近づこうとする時、私はいつも『常盤木』に寄ってゆく自分を見出している。
 次の歌集が『椎の木』である。自律のあとの自在に遊ぶゆたかさを、この歌集に見とめることができる。「恵峡看鶴十章」、「山中温泉」、「山・雲・鳥」、「雪の長良川」などの連作に、特に顕著な傾向である。昭和十二年四月、先生は文化勲章を授賞する。その日、
  万葉(よろづは)の道の一道生(いき)のきはみ踏みもてゆかむこころつつしみ
 と詠う。ここで自恃と自責の念を新たにした先生は、再び自己の上に厳しい律を課してゆく。長崎の浦上天主堂に遊んだ時、キリスト教徒が、自らの信仰の薄きを戒めて、自らに鞭を加えたという古い麻繩を見て、
  苦行人この麻繩の鞭とりあげ血ぶくまで我をうちけむか我を
  炎なす信の心をもちつつなほ我を呵責しうちけむ鞭か
 を含む八首(全集では七首)の歌をつくった。これはまた先生が自らを鞭うつ歌である。昭和三十五、六年ごろの夏、凌寒荘を訪ずれた私は、先生の憤りにあって、身を堅くして、ただうなだれていた。私の怯懦と不遜を怒り、私の不才をあわれんで、先生は声を大きくつのらせてゆかれた。そして、長い時間が経過した。最後にこの「麻繩の歌」を早口で次から次へと読まれ、身をのり出して、鞭で御自分を大きく打つような所作をなされて、「こうして自分を打つんです。打つんです。少くとも私はこうして自分を打って来ました」とものにつかれたようにいわれた。
 その途端に、先生の数百冊に及ぶ著作が私の眼前に浮んで来た。この内奥からのほとばしるような声が、これをなさしめたのだと思わずにはいられなかった。先生を穏健閑雅なる大宮人に仕立て上げる人は多いけれど、やはり、先生は芸術家としての狂気を深く蔵していた。その狂気を引き出してしまった私は、もう「心の花」以外に行くべきところはないと思いこんでしまった。隣室であの人は「心の花」をやめてゆくに違いないと心配している人々の思わくは後になって聞いたことである。
 一度もほめられたことのない私の先生への挽歌、
「先生の前に身を堅くしてをりしこと憧れのごとく今憶ひをり」は、その時の憶い出をあざやかして作ったものである。
 先生が私に常に戒しまれたことに「趣味に溺れてはいけない。放恣な感情に身を委ねてはならない」というお言葉であった。それを私は、先生が若き日の苦悩の淵に身をおいた自己の危さをかえりみて、この若者にそうあらしめてはならないというような気持でおっしゃっているものと受けとめていた。私は先生の戒めから先生の歌の読み方を学んでいったのである。



(石川一成「心の花の歌人」「心の花小史・心の花の歌人と作品」竹柏会)