佐佐木信綱代表歌

願はくはわれ春風に身をなして憂(うれひ)ある人の門(かど)をとはばや
幼きは幼きどちのものがたり葡萄(ぶどう)のかげに月かたぶきぬ
春の日の夕べさすがに風ありて芝生(しばふ)にゆらぐ鞦韆(ゆさまり)のかげ
うつらうつら眠(ねむり)催す馬の上に見えては消ゆる古さとの庭
大門(だいもん)のいしずゑ苔(こけ)にうづもれて七堂伽藍(がらん)ただ秋の風
野の末を移住民など行くごときくちなし色の寒き冬の日
虻(あぶ)は飛ぶ、遠いかづちの音ひびく真昼の窓の凌霄花(のうぜんかづら)
山の上に初春きたる八百(やほ)あまり八十(やそ)のみ寺は雪に鐘(かね)打つ
誰(たれ)と知らず何処(いづこ)と知らずつくづくと冷たき眼して我を眺(なが)むる
ぽつかりと月のぼる時森の家の寂しき顔は戸を閉(と)ざしける
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
まつしぐら駒(こま)走らして縦横(じゆうわう)に銀の鞭(むち)ふる秋風の人
万葉集巻二十五を見いでたる夢さめて胸のとどろきやまず
現実の暴露(ばくろ)のいたみまさやかにここに見るものか曼珠沙華(まんじゆしやげ)のはな
人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青きかがやき
敷島のやまとの国をつくり成(な)す一人とわれを愛惜(をし)まざらめや
うぶすなの秋の祭も見にゆかぬ孤独の性(さが)を喜びし父
いつまでか此のたそがれの鐘はひびく物皆うつりくだかるる世に
道の上に残らむ跡(あと)はありもあらずもわれ虔(つつし)みてわが道ゆかむ
山の上にたてりて久し吾(われ)もまた一本(いつぽん)の木の心地するかも
白雲は空に浮べり谷川の石みな石のおのづからなる
山にありて山の心となりけらしあしたの雲に心はじまる
何をかもいきどほろしみこれの埴輪口くひしばり太刀(たち)ぬかむとする
少女なれば諸(もろ)頬につけし紅(べに)のいろも額(ひたひ)の櫛(くし)も可愛(かな)しき埴輪
春ここに生るる朝の日をうけて山河草木(さんかそうもく)みな光あり
あき風の焦土(せうど)が原に立ちておもふ敗(やぶ)れし国はかなしかりけり
あまりにも白き月なりさきの世の誰(た)が魂(たましひ)の遊ぶ月夜ぞ
人いづら吾(わ)がかげ一つのこりをりこの山峡(やまかひ)の秋かぜの家
花さきみのらむは知らずいつくしみ猶(なほ)もちいつく夢の木実(このみ)を

(佐佐木幸綱選「心の花小史・心の花の歌人と作品」竹柏会)