心の花の歌人
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心の花の歌人2


佐佐木信綱
三浦守治
石槫千亦
橘 糸重
大塚楠緒子
印東昌綱
片山広子
川田 順
新井 洸
柳原白蓮
九条武子
安藤 寛
前田福太郎
西郷春子
栗原潔子
富岡冬野
真鍋美恵子 保坂耕人 佐佐木治綱
中山昭彦
遠山光栄
林 大 佐佐木由幾
竹山 広
築地正子
須田昌子
石川一成
木島 泉
久家基美
石川不二子
今泉 進
高辻郷子
小紋 潤
住 正代
 (生年順)
         

佐佐木信綱(ささき・のぶつな)



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三浦守治(みうら・もりはる)
(1857 -1916)
福島生まれ。
東大医学部を首席で卒業(森鷗外と同級)。
ドイツに留学、病理学を専攻し、東大教授に。
1898年、竹柏会入会。14歳年下の信綱に師事。

佐佐木信綱に「人間性を表現せる歌人」という長い評論がある。
(『佐佐木信綱文集』1956 所収) 
以下、冒頭部分を引用する。

和歌史上において、最も欠けてをるのは、作者が偽らぬ自己を語り、人間性を表現した作である。従つて和歌史上、人間 研究の対象とするに足る歌人及びそ の作品が乏しい。これは万葉以後明治以前までは、偉大な個性を持つた人で歌を詠んだ人でも、多くは伝統的思想に従つて、 専ら自然の風物四季折々の情趣など を歌つて、自己を語らなかつた故であろうと思ふ。
近世の思想家として、学者として、歌人としての内的生活を舒べ、或は、広く人間性に触れた作者を求めると、江戸期の 吉川惟足、平田篤胤、橘曙覧、大隈言道、明治初期の福田行誠等を挙ぐべきであらう。明治の末期から大正初期へかけての歌人の中では、「移岳集」の作者医学博士三浦守治君こそは、その人格と歌風とが一 致して、人間性を表現せる歌人とい ふべきである。石川一成は「人間性を表現せる歌人」について「壮年以後の先生(=信綱)の歌風を解く鍵さえ秘めていると私は考える」と書いている。
(「心の花小史 心の花の歌人と作品」)。

歌集
『移岳集』 (1915)
『三浦守治先生歌集』 (1923)

雲の上に心は遣(や)らじ久方の天の下にし住めばことたる
天地にせぐくまりをれど限なくのびにのびゆくわが心かも
老いて世をさとりがましくふる吾の昔は鬚(ひげ)も何もなかりき
地を出でて二日も経ざる竹の子にたけくらべして我はまけにけり
生(いき)の緒に思ひし我が文燕くる春にしなりても未だ書きをへず

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石槫千亦(いしくれ・ちまた)
(1869-1942)
現在の愛媛県西条市に生まれる。
 「明治26年竹柏会に入って以来、昭和17年8月に歿するまで50年間にわたって、よく信綱を輔佐し、また、「心の花」は創刊以来、千亦を編集責任者として来た。信綱先生が、歌人、学者として大成された蔭の功労者としても千亦の名を逸することはできないであろう。」
石川一成「心の花小史 心の花の歌人と作品」より

水難救助会に勤務、職業柄、海に接する機会が多く、海の歌を多く残し「海の歌人」と呼ばれている。

歌集
『潮鳴』」 1915
『鷗』 1921
『海』 1934
『「病床日誌』 1942

黒ずめる海を抉(えぐ)りてまろまろと夕日は深く沈みゆくらし
ならべ干せる烏賊の生干(なまび)のするどき香ただよふ中の裸の子等よ
燈台に灯(ひ)の入る時も近からむ船の上ふく風冷えて来ぬ
あれ狂ふ雨風の中を声高に船危しとさけびさけび走る
大かたはおぼろになりて吾が眼には白き杯一つ残れる

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橘 糸重(たちばな・いとえ)
(1873 ―1939)
三重生まれ
東京音楽学校卒業、同校の教授を勤め、ピアニストとして有名。
第1回芸術院会員に佐佐木信綱とともに選ばれた。

樋口一葉  1872(明5)~1896(明29)
橘 糸重  1873(明6)~1939(昭14)
大塚楠緒子 1875(明8)~1910(明43)
与謝野晶子 1878(明11)~1942(昭17)
片山廣子  1878(明11)~1957(昭32)

こうしてならべて見ると、五人の生年はわずか六年しか差がない。ほぼ同世代と見ていい。しかし、歌人としてのイメージ はずいぶん異なる。一葉は「最後の 旧派歌人」、晶子は「始発期の新派歌人」のイメージである。まさに短歌史の過渡期だった。
文学に目ざめた時期、読書体験、師系、歌人仲間などのわずかな差異が、過渡の時代には決定的な結果をもたらす。一葉 は、後に記すように、江戸時代短歌の 伝統を守るグループに属して作歌し、旧派の歌を作った。与謝野晶子、片山廣子は、旧派の要素を抱え込みつつ新派の潮流に かろうじて乗った。橘糸重、大塚楠緒子は、過渡の時代の空気をもろに浴びた歌人と位置づけられるだろう。旧派的でもあり新派的でもある微妙な短歌作 品をのこした。
佐佐木幸綱『橘糸重歌文集』解説

和歌史家の立場からいふと、明治の和歌史を大観して、新しい歌が興つた後、はじめて沈痛な作を詠じたのが橘女史であつ て、後にその跡を履んだのが白蓮夫 人である。
佐佐木信綱「橘糸重女史」
(心の花 昭和14年10月号 橘糸重追悼特集)

橘さんは写真を撮るのが一番嫌であつた。会の記念写真などには、いつも最後の列に加はつてゐて、パツとシヤツタ―を切 つた時には、すつとしやがんで了 ふ。偶偶少数で前の方に居なければならぬ時には、見事にうつ向いて了ふ。その時刻を観ることのうまさ。斯くて正面きつた ものがありとすれば、立派に国宝的 存在といつて宜い位のものだ。
石槫千亦「橘糸重さん」(同上)
『橘糸重歌文集』 阪本幸男編著 短歌新聞社(2009)

つちかひし母君まさでこのあきはちひさくなりぬ庭のしらぎく 
『竹柏園集第1集』明34
涙なく悔なき一日もしあらば其ゆふぐれに死なむとぞ思ふ
「心の花」 明39年1月
ひしひしと寂しさ迫る大なる笑ひの渦の我めぐる時
「心の花」 大2年1月
わがこころひたに守りてとしをへぬむなしかりきやたふとかりきや
「心の花」 大6年1月
なりはひはかなしかりけりあやまちてピアノひく人となりしいくとせ
「心の花」 大7年9月

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大塚楠緒子(おおつか・くすおこ)
(1875 -1910)
現在の東京都千代田区に生まれる。
お茶の水高女を首席で卒業。
学生時代に佐佐木弘綱に入門、弘綱没後は信綱に学ぶ。
歌集はない。
小説では最初に尾崎紅葉に、のちに夏目漱石の指導を受け、閨秀作家として名を馳せる。短編集「晴小袖」、長篇「露」がある。

人つどひささめく声につつまれて/いよいよ我ぞさびしかりける
(竹柏園集第一編)

この歌について大口玲子は次のように書いている。
名家に生まれ、容姿にも恵まれた作者は、小説や詩、戯曲、音楽、語学など多方面に才能を発揮した。心の花の合同歌集『あけぼの』には、有名な反戦詩「お百度詣」が収録されている。外見はなに不足ない生活を送っているはずの作者が、群衆の中でふと感じた孤独、寂寥感は、孤立したまま深まってゆく。
『名歌名句辞典』佐佐木幸綱・復本一郎編(三省堂)

桜ばなさきみちしより木のもとの/すみれは人にふまれつつのみ
胡蝶さへとはじと思ふ草の中に小さき花をわれぞ見出でし
たてよこにうねりくねれる学者町小さき家に人にかしづく
男みなひざまづかむを口惜しきは女王めきたる容色のなき
けさ死ぬか暮に死ぬかといふ妻に小鳥を見する枕辺の夫(つま)[辞世]

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印東昌綱(いんどう・まさつな)
(1877-1944)
現在の三重県松阪市に生まれる。
佐佐木信綱の実弟。
国語伝習所に学び、22歳のときに印東家を継ぐ。

印東昌綱の歌は、限りないやさしさと豊かな趣味性に支えられたものが主流をなしている。やさしさは人事にも自然にも及び、素材として、険しいもの、荒々しいものは、その対象からはずされ、諧調に充ちたもののみが選びとられる傾きをもつ。激しい荒海を前にしても、
こちごちに突つたつ岩は岩なりにさからはで波の睦び寄するも
と、その荒さのなかに優しいものを認め、そこに視線を集めてしまうのである。
石川一成「心の花小史 心の花の歌人と作品」より

幼くよりかよわかりし身を、父君のいとほしがり給ひて、書よまんよりも先づ其身を
いたはれとのたまひしかば、御教うけし事も多からぬ間に、父君失せさせ給ひ、殊に
我身をあはれび給ひし母君も、三年をこえぬ程に世を去り給ひぬ。
わが身はた病を得て、好めるままに学びそめし絵のわざをも半にして打すて、この
鏡の浦に移り住みしより、折々に物せし歌文の草稿を、兄君の許に送り置きしに(以下略)
印東昌綱『磯馴松』「おくがき」より

歌集
『磯馴松』 1903 信綱との共著、歌文集
『かへりみて』 1922 
『家』 1934
『細雨』 1941

やや癒えし身を籐椅子に横たへて赤とんぼ飛ぶ夕庭を見る
万物の音ひとしきり中空にただよふなして暮れゆく東京
とけやらぬ昨日の雪の風さえてみ寺の鳩もひくく遊べり
或時はあなづらはしう思ほえて冷たき壁の隅を見つむる
須田町に鉄道馬車が通ひし日兄におはれて見に行きたりし

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片山広子(かたやま・ひろこ)
 (1878-1957)
現在の東京都港区に生まれる。
東洋英和女学校を卒業と同時に佐佐木信綱に入門。
22歳の時、日本銀行理事片山貞次郎と結婚。
松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳家としても活躍した。
芥川龍之介との親交は有名で、「あの人にだけは敵わない」と言わせたというエピソードがある。堀辰雄の『聖家族』のモデルとも言われている。

前川佐美雄氏が、片山さんはスタイリストだった。とズバリ一言に評したのも諾えるのである。たとえば、いつといって彼女の病床に花の置いてあるのを私は見たことがない。それは心境として花なんぞに甘える必要がなかったのだと思われるが、一面、病臥には型通り花のある世俗の風習が彼女には我慢できなかったのだともいえる。
栗原潔子「片山広子素描」短歌研究 昭和38.3

歌集
『翡翠』 (1916)
『野に住みて』 (1954)
エッセイ集『燈火節』 (1953)

ああ我は秋のみそらの流れ雲たださばかりにかろくありたや
わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く
紅梅の大き枝もち行く子あり三月なりと心あわてる
けふわれのかけし祈願はしら雪のふりつもる冬まで待ちてみむとす
古き帯の値に得たる千円を働きてとりしごとく錯覚す

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川田 順(かわだ・じゅん)
(1882~1966)
現在の東京都台東区に生まれる。1897年、16歳で竹柏会に入門し、「心の花」創刊に同人として参加。新井洸、木下利玄とともに「心の花三羽烏」と呼ばれた。住友総本社に勤務、第一線の実業人として活躍した。退社後は古典研究に打ち込み、その業績によって1944年に朝日文化賞を受賞している。

あの密度の濃い、作品内面には、抵抗の感じられない、内容の把提にも形式にもディフォーメイションの影もない川田順作品の孤高、超越的形式は、現代人の心情心境詠でありながら現代人の作品でないやうな錯覚を時におこさし、何か時代のずれを感じさせ、あきたらなさをおぼえしめる。いはゆるおもしろさはない。この点茂吉とも対比されようが、文明との対比はさらに苛烈だ。とはいへこれはむしろ類型の相違であつて、これらの前提條件を容認すれば、伝統短歌として川田順ほどの名人の冴えを示しうる大家は現歌壇には無い。
五島茂・川田順歌集解説(『川田順歌集』角川文庫、1955、p198)

歌集
『伎芸天』1918
『陽炎』1921
『山海経』1922
『青淵』1930
『鵲』1931
『立秋』1933
『旅鴈』1935
『鷲』1940
『妻』1942
(『史歌大東亜戦』1944)
『吉野之落葉』1945
『読書余情』1946
『寒林集』1947
『東帰』1952
『東帰以後』未刊

楢の木に啄木鳥のうつ音けたたまし氷張る湖の汀なりけり『伎芸天』
山藤や君とゆく道きはまりて真下に淵の青みたるかな『伎芸天』
立山が後(うしろ)立山(たてやま)に影うつす夕日のときの大きしづかさ『鷲』
寒き水ながれて居らむ吾がわくる林の奥は谷に傾く『寒林集』
相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ『東帰』

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新井 洸(あらい・あきら)
(1883-1925)
現在の東京都中央区生まれ。
東京府立第一中学校卒業後、絵を藤島武二に学ぶ。
尾崎紅葉門下になった時期もある。
15歳にして佐佐木信綱に師事。木下利玄・川田順とともに「三羽烏」と呼ばれた。
水難救助会に勤務、同僚の古泉千樫と相互に影響を受けながら作歌した。

「名匠の風格を備え、鋭敏華繊、抒情豊かな作品を『微明』一巻に残して、貧困の中に胸を病んで死んだ。千亦の渋滞のない詠みぶりに対して、苦吟の横綱ともいふべく、珠玉の作品はこの間になった。」
安藤寛「心の花」昭和39年4月号「竹柏園門流」より

歌集
『微明』 1916
『新井洸歌集』 1931

人間のいのちの奥のはづかしさ滲(し)み来るかもよ君に対(むか)へば
日の暮を風船売(ふうせんうり)の残りもの風船玉の夕明(ゆふあかり)かな     
うつつなく流れただよふ夕明り仏足石を見せたまひけり
心のまづしき日なり濡れたをるしみじみと目にあてにけるかも
すゑものの壷の花瓶ははな挿さず今朝この部屋になべてうつろなり

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柳原白蓮(やなぎはら・びゃくれん)
(1885 -1967)
東京生まれ。本名・燁子(あきこ)。
伯爵・柳原前光(さきみつ)の次女。
1900年、竹柏会入会。
1911年、東洋英和女学校卒業。福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と結婚。
1921年、東京帝国大学の学生だった宮崎龍介のもとに出奔。朝日新聞に夫への絶縁状を発表して大騒動となる。

白蓮の名を世に知らしめた第一歌集『踏絵』(中略) とりたてて名歌というものはないかも知れぬが、明治男権社会の生 け贄さながらの半生を強いられた白蓮という女性(数葉の写真を見ると、いかにも或る種の男たちの支配欲をそそるような蒲柳繊細な印象の美貌である)の時代 へのあらがいの声がまぎれもない。 このあらがいの声において白蓮の歌は十分に明治の文学たり得ているかと思う。
島田修三「白蓮という女性」(「心の花」創刊一〇〇年記念号)

『心の花』大正十(一九二一)年十一月号に、柳原白蓮と九條武子が一緒に書いた「別府より」と題したコラムが載ってい る。(中略)
「コラム」は、大正十年秋に武子が別府に白蓮を訪ね、何日か滞在したときに書かれたものだ。二人の師である佐佐木信綱宛 に寄せ書きを送り、それが活字にさ れたと思われる。
「はるばると東の方をむかへて西片町のお稽古日のお話など御なつかしう承り候。
まゆに似て細き月なり星おちぬかかる夕べは死もやすからむ   燁子
たのしき日もあすにてつき候。あめも風もよその空、ここばかりは秋の天おだやかに美しうかがやき居り候。珍しくきのふ 早おきいたしこんなもの拾ひ候。玉 か土くれか、土くれまでゆけば幸いに候。
しずやかに太陽は君臨す我がむねに望みの魂もめざめける朝 武子」
これがいつ書かれたか、日付が微妙である。十月二十日に白蓮は伊藤伝右衛門の家を出て宮崎龍介のもとへ走る。『心の 花』の同じ号に、十月十三日付の文章 が載っている。つまり白蓮が家を出る直前に書かれた可能性が高い。白蓮の歌に「死もやすからむ」とある。本当に死が視野 に入っていたのか。武子の文章の 「土くれまでゆけば幸いに候」は何を意味しているのだろうか。
この時代の白蓮・武子の歌や文章は、心と言葉の間の距離が大きいので分かりにくい。この歌と文章にも分からない部分が あるが、日付を入れるとだいぶ意味 が鮮明になる。
佐佐木幸綱「白蓮と九條武子」
(愛を貫き、自らを生きた 白蓮のように 柳原白蓮展 カタログより 2008年)

歌集
『踏絵』 1915
『幻の華』 1919
『紫の梅』 1924
『流転』 1928
『地平線』 1956
詩歌集『几帳のかげ』 1919
自叙伝『荊棘の実』(いばらのみ) 1926

小説
『則天武后』 1924
『恋歌懺悔』 1928
戯曲 『指鬘外道』(しまんげどう) 1920

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前『踏絵』
追憶の帳のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥
さめざめと泣きてありしに部屋を出で事なきさまに紅茶をすする
英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壺よ振れば音する『地平線』

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九条武子(くじょう・たけこ)
(1887~1928)
京都市生まれ。京都西本願寺の法主、大谷光尊の次女。1909年に九条良致と結婚、ともに英国に渡るが、一年で単身帰国してのち12年間の独居生活を送った。1916年に「心の花」入会。仏教婦人会総裁として宗教事業や社会事業で活躍し、東山女子専門学校(現京都女子大学)を創設した。

初夏は春よりもなほ独居(ひとりい)のほとほとつらくむねにせまりく
いくとせをわれにはうとき人ながら秋風ふけば恋しかりける
幸うすきわが十年のひとり居に恋しきものを父とし答ふ『金鈴』

武子は右のような歌を詠むことで、みずから孤閨を癒していた。(中略)武子は宗教家としてはよく知られていた。だが彼女の歌は、大正九年六月に『金鈴』が出版されるまで、世間にあまねく知られていたわけではなかった。極論をすれば、この『金鈴』によって心をうたれ、あらためて彼女が歌人であったことを認識した読者も多かったようにおもう。(籠谷真智子『九条武子―その生涯とあしあと―』同朋舎出版、1988、p162~163,168)

歌集
『金鈴』1920
『薫染』(遺歌集)1928
『白孔雀』(遺歌集)1930
歌文集
『無憂花』1927

よき月夜すあしのつまのほの青う露にぬれたり芝生にたてば『金鈴』
八重のさうび真紅にさけば君あらぬ部屋もほのぼの明けゆく心地
ゆふがすみ西の山の端つつむ頃ひとりの吾は悲しかりけり
おほいなるもののちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや『無憂花』
こしかたも行く末も見ずたまゆらのわれと思ふに生きのたふとさ「心の花」昭和3・2

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安藤 寛(あんどう・ひろし)
(1892 ―1993)
佐賀県生まれ
1919年、竹柏会入会。新井洸に師事。

安藤寛の歌には、一応二つの傾向を見ることができる。一には叙景歌、二には叙情歌の系列である。更に叙情歌は、思郷の歌と家族を中心とする人間愛の歌に分かれよう。叙景歌の骨法は、石槫千亦を中心とする大正期の曙会の中で体得したものであり、抒情歌は生得の情愛の濃かさに加えて、新井洸より学んだものといえるであろう。
「心の花」1001号(1982年)石川一成「叙景にこもる愛」

歌人としての寛の人生をかえりみる時、長寿と言われたその年齢にかかわる歌にも触れないわけにはいかない。
九十五歳を迎へし吾れを傍らに八十七歳の妻言葉少なし
何れが先か茶の間に語り笑へどもわれを残して逝くべきならず
長寿とは、皆に祝われながらその幸せをかみしめていればよい、というものではないようである。特に、寛九十五歳の冬に、六十八年間を共に歩んだ夫人を失って 以降、老いを受け入れることは、常に苦しみを伴ったようである。
火燵(こたつ)して居れども寒し七月の装ひはいまだ衣(きぬ)を減らさず
九十にて逝くべき命長らへて日日を苦しむ百の年齢を
高き齢を享けて豊かに生(よ)を如何にあるべき老か日日の空しき
「心の花」創刊100年記念号(1998年)白岩裕子「百歳の思い」

満百歳の大往生に至るまでの晩年の作品は、具体的な数字の重みを駆使しつつ、どこか軽みを感じさせて味わい深い。
『現代短歌大事典』(2000年 三省堂)俵万智「安藤寛」

歌集
『山郷』(1963)
『千林』(1972)
『二水』(1987)
『二水以降』(1988)

朝さめてきびしき寒さ天山に雪降りたりといふ声きこゆ
故郷の何にすがりて懐ひ出を追ふわれならむ帰り来りぬ
盛りあがり巻く渦の輪の激(たぎ)ち合ふ波先あらく最上はくだる
妻のもの嫁に拒(こば)みて濯(すす)ぎする手許の水に宿世を悟る
学び来し心の花の六十余年手に一千号命なりけり

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前田福太郎(まえだ・ふくたろう)
(1892~1974)
静岡県下田市白浜に生まれる。1913年に「心の花」入会。水難救済会で催される曙会などに参加し、佐佐木信綱・石榑千亦・印東昌綱・木下利玄・新井洸たちと歌会を共にする。故郷の下田の風土に根差す清新な作品を作り続けた。

歌集
『浜木綿』1940年
『磯山』1957年
『潮霧』1971年

沖潮にたつた一つのわが船の春のうららを傾きて航く 『浜木綿』
いく夜徹し修理を終へたる發電機とどろく見れば涙流るる
磯山の篠の葉の上に斑をちらす松の漏れ日の朝清くして 『磯山』
わたつみの春のうしほの遠とよみわれの命を今もはぐくむ 『潮霧』
東京は長くとどまるところならず妻よ帰らむ伊豆のわが家に

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西郷春子(さいごう・はるこ)
(1894~1951)
三渓原富太郎の長女。少女期より信綱に歌を習う。信綱は歌集『あし原』に「精進多年、常に一句を忽にせず、一語をも精錬して、道を思ふの情最も切なり」と序を寄せている。歌風は優美で、細やかな情感に満ちた母性の歌にも秀でている。父・原三渓、兄・原善一郎、兄嫁・原寿枝子ともに「心の花」の歌人。歌集に『塔』『あし原』『慧春集』がある。

歌集
『塔』1915年
『あし原』1943年
『慧春集』1952年

秋風に立てるを琴のそら音して文机の上のうばら花ちる 『心の花』明治43年11月
水のおと静寂の中に細う響くわが心にもこのひびきあり 『塔』
魂(たま)ごもるこれの画巻の美しさ見まししものの終りなりける 『あし原』
かくばかりよりてをあれど吾子(あこ)も亦母にあきたらぬ日の来りなむ
かにかくに長き一生を生き堪へて生き堪へてさて寂しさは何 『慧春集』

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栗原潔子(くりはら・きよこ)
(1898~1965)
鳥取生。1913年「心の花」入会。異例の21歳で第一歌集『潔子集』刊行。28年「心の花」選者。40年治綱らと「鶯」創刊。50年創刊の「短歌風光」に築地正子、竹山広を迎え終刊まで8年間主宰。「女人短歌」に参加。独自な韻律に内省を託す歌風を貫く。文芸誌「火の鳥」創刊に参加。小説も書いた。歌集は他に『寂寥の眼』『栗原潔子歌集』

空にさす枝のかぐろくさびしきにこの樫の木はわれに似たらむ『潔子集』
樹によれる背のあたたかさ空間にただよふ秋のひかりに見入る
ひむがしの大竹藪の空しろくあかりわたれり月いづる前を『寂寥の眼』
一切を人の世のほかにゆだねはてし静けさを保ち人はありここに
勝ちし者も負けたるものもみじめなる顔みとめあふ折ふしがあり『栗原潔子集』

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富岡冬野(とみおか・ふゆの)
 (1904-1940)
京都市生まれ。
1919年、竹柏会入会。

富岡鉄斎を祖父に、学者である桃華を父として、京都の伝統的な美意識のなかに育まれ、何よりも本物に、美しいものに対して俊敏であった。
山をもて四方かこまれし町に住み終(つひ)にのがるる日なきに似たり
ふるさとの大き樹しげり暗き家にひねもす何もせずゐし娘
その聡明闊達自在ともいえる人となりをもってしても、閉塞された時代をこじあけることはできなかった。懊悩し、煩悶した挙句、家にこもり、京都に縛りつけられる以外には自分の生きざまはないのかと考えた時代の歌である。
石川一成「心の花小史・心の花の歌人と作品」

冬野さんは松崎君に嫁ぎ、上海にいつて彼の地でなくなられた。心の花四十四巻七号の冬野さん追悼号には、内外の知人の多くの歌文が掲げてある。
佐佐木信綱『ある老歌人の思ひ出』

歌集
『微風』 (1924)
遺歌文集 『空は青し』(1941)

うつろなる家の静もり鍵かけて出づる扉は日にぬくみゐし
日の暮は疲れはてたるわが手より落ちてはこはるる物の音する
うつつなく春こそ来つれうつつなく山櫻こそ咲きそめにけれ
楡の樹も空なる雲もかささぎもわれを見知らぬ街にきて住む
百年はたやすく過ぎむ遠(をち)方にかたむきたてる塔を見ながら

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真鍋美恵子(まなべ・みえこ)
(1906~1994)
岐阜市に生まれる。東洋高等女学校を卒業後、1924年に「心の花」入会。印東昌綱に師事する。1949年、女人短歌会発足に参加し、1951年に「短歌風光」入会。佐佐木治綱のもとで「心の花」編集委員として活躍する。1959年、第四歌集『玻璃』が第三回現代短歌協会賞を受賞。1971年、第六歌集『羊歯は萌えゐん』が日本歌人クラブ推薦歌集賞を受賞。

歌集
『径』1944年
『白線』1950年
『朱夏』1953年
『玻璃』1958年
『蜜糖』1964年
『羊歯は萌えゐん』1970年
『土に低きもの』1976年
『雲熟れやまず』1981年

「感情をふと置き忘れて来てしまったような、といったらよかろうか、ここには全く感情がなく、感覚だけがある。そしてその感覚は、ひたすら〈もの〉の在りようへと向かっている。生活もなければ倫理もない、あるのは〈もの〉へ向かう感覚だけである。歌人真鍋美恵子の基本的な特質をこの辺りに私は見るのである」
佐佐木幸綱『真鍋美恵子全歌集』(沖積舎)栞「全歌集の刊行を喜ぶ」より

焚きさして時雨(しぐれ)に消えし枯草に針止(と)めて又火をつけに立つ『径』
桃むく手美しければこの人も或はわれを裏切りゆかん『玻璃』
八月のまひる音なき刻(とき)ありて瀑布のごとくかがやく階段『羊歯は萌えゐん』
セメントのにほふ地下駅葱の束解きたるがごと若者らゐる
沼の面を音なく蛇がよぎりゆくひとすぢの炎ゆる金色(きん)とはなりて『雲熟れやまず』

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保坂耕人(ほさか・こうじん)
(1908~2003)
山梨県中巨摩郡竜王村に生まれる。長年にわたり山梨県の学校教育に関わる。1932年竹柏会「心の花」入会。1974年より1983年にかけて「心の花」編集委員を務めた。地元短歌誌「炎樹」に関わり、「心の花」甲府支部として「なぎの会」を発足し、代表として後進の育成に取り組んだ。

歌集
『一隅』1965年
『岫』1979年
『風炎』1984年
『風塵抄』1988年
『保坂耕人全歌集』2015年

学務課の一隅に黒く垢つきし机ひとつがわが拠りどころ 『一隅』
放念のかなたに浮かぶ雲ひとつ 甲斐に生まれて甲斐に死ぬべき 『岫』
みては山ききて木枯らし 壺中の塩 甲斐に終らむ一期なるべし 『風炎』
逆光のわが甲斐駒は雲の中無念とはかく姿を持たぬ 『風塵抄』
いつ誰がまきし記憶もなきままに白くいとしき年年の花 『保坂耕人全歌集』

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佐佐木治綱(ささき・はるつな)
(1909~1959)
東京生まれ。信綱の三男、由幾の夫、幸綱の父。1940年に「鶯」を創刊、52年に「心の花」の編集・発行人となるが、50歳で急逝した。中世和歌、特に京極派和歌の研究者であり、白百合女子短大教授をつとめた。研究書に『伏見天皇御製の研究』『永福門院』など。

強きものに背負われ歩む苦しさを曾祖父も祖父も知らで逝きたる 『続秋を聴く』
 信綱と治綱は、「強きものに背負はれ」て歩かざるをえなかったという認識である。「強きものとは」とは、信綱、治綱のそれぞれの父である弘綱と信綱を指していよう。歌人は、息子に対して「強きもの」たることを拒否しようとしていたにちがいない。そして、短歌などは「すがれ立つ庭の葉鶏頭」のように、「事もなげに」抜き捨てた方がいいよ、と息子に言いたかったのではなかったか。 佐佐木幸綱「父と息子」(『短歌現代』1982年6月号)

歌集
『秋を聴く』1951年
『続秋を聴く』1960年

たわたわと山吹映る水たまり避けつつ帰る君を懐へり 『秋を聴く』
山峡はただ霧の海ぽつかりと木立浮びて山鳥のこゑ
一ふさの葡萄手(た)握り冷たさに今朝の心の救はれてある
冬の空さえざえと邃し仰ぎつつ怒り持つゆゑに生けりと知るも 『続秋を聴く』
若人の生命(いのち)殺して栄えゆかむ人間(ひと)を嘲りあぢさゐ藍し

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中山昭彦(なかやま・あきひこ)
(1910年~1998年)
一九三五年、信綱に師事し「心の花」入会。同年、治綱、由幾ら若手歌人による「鶯」に参加。五〇~五八年、「短歌風光」後に「風光の会」で合同歌集『風光抄』上梓。五四年より「心の花」編集委員となる。淡々として気負いなく人生への執着のない潔い歌風。八六年『伐(ば)折(さ)羅(ら)』上梓、「伐折羅会」(青木信、宇都宮とよ、斎藤佐知子、住正代)を結成し、陶芸、歌の滴りを伝えた。

歌集
『伐折羅』1986年

土のいろあたたかなれや懸りゐる白き釉(くすり)は春雪に似る 『風光抄』
創世のそのかみも雨はかくのごとき声して夜をおほひけむかも 『伐折羅』
水に澄む月をりをりにくだくるを落葉ただよふゆゑと思ひぬ
春の雲ほのかにむすびまた消ゆるま空がうへに見入りてひさし
何ごともなきかのごとし雲の輪の移らふのみの地球が映る

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遠山光栄(とおやま・みつえ)
(1910~1993)
東京浅草に生まれる。跡見女学校を卒業後、1934年に「心の花」入会。佐佐木信綱に師事し、編集委員を経て選歌委員をつとめる。1957年、第三歌集『褐色の実』で第一回現代歌人協会賞を受賞。

歌集
『杉生』1943年
『彩羽』1950年
『褐色の実』1956年
『青螺』1964年
『陶印』1974年
『随縁』1986年

「遠山光栄氏は恩師佐佐木信綱先生の愛(まな)弟子だった。…光栄氏は恩師の予言の通りに歌壇から好評を博し、長く短歌史に足跡を印すに至った。明治以降多くの女流歌人が数えられるけれども或る一極の存在感を認識させるひとりであると断言させる作家は少ない。『杉生』の特長は若さにある。みずみずしく知性的で瞑想を湛え、祈りの姿は痛ましくさえある。作品の句々のつながりに韻律をこめて声誦に堪える。」
中山昭彦『心の花』平成5年7月号「遠山光栄を悼む」より

野天には木草ら萌えて花咲きゐるここに遍き真実のさま『杉生』
一本の道とほくより向へるがありて苦しくわがこひやまぬ『彩羽』
君の言へるときに光りし言葉あり「老はいろ深き落葉のごときよ」『褐色の実』
精神薄弱者の手に均されて黒き土そこにダリアが茎を立てたり
透明に蜜柑の花のにほひをり歩みゆくとき匂うごきて『青螺』

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林 大(はやし・おおき)
(1913~2004)
東京都文京区に生まれる。林古渓の長男。東京帝国大学国文科卒業。1938年満州へ出征。戦地からの家族にあてた書信、短編を纏めた『戦地より父母へ』(39年)がある。1946年より文部省にて当用漢字表・現代かなづかいなどの作成に携わり、その後も学習指導要領国語科編の改定など国語教育の発展に貢献した。1976年から1982年にかけて国立国語研究所所長、1985年から1995年まで日本語教育学会の会長を務める。

ほたる火のいきづかしもよこごしかる夜襲のみちを断(き)りて流れぬ 『戦地より父母へ』
南風(はえ)の海大波は空を透きて淡しかがやきは穂に白さは泡に
わが友は南にあるかこの厚き黄土の國の猶し南に
廣ければかつ地のあつさ知りにけり黄土よ天を載せて安しも
録音機かくればきこゆ佐渡人の声の奥より佐渡の鶏さへ 『心の花』昭和27年9月

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佐佐木由幾(ささき・ゆき)
(1914~2011)
中国大連市生。祖父、桜井錠二・父、鈴木庸生はともに科学者である。1923年、10歳の時に一家で東京へ戻る。1937年、24歳の時に佐佐木治綱と結婚。文京区西片町に住み、信綱に勧められ作歌を始める。1959年、46歳の時、夫治綱の急逝に遭い「心の花」主宰を継ぐ。1963年、世田谷区多摩川へ転居。同年、佐佐木信綱が逝去。のち、佐佐木幸綱に託すまで会員の信頼を受けつつ「心の花」運営に心血を注ぎ、育成、包容に務めた。

歌集
『半窓の淡月』1989年
『一茎の草』1995年

「先生は、お歌のご批評のとき、低俗なものを嫌い、美しそうなことばの本質を見透かし、虚栄のポーズに敏感であられ、もの柔らかなことばで、鋭い指摘をなさるのでした。いいかげんに作るということを、よく戒められました。下手でも言いたいことを言い得たとき、実に大切に私たちの心を掬いとってくださいました。先生が、本当に大切にしている心というものを、私たちもおぼろげながら探すようになりました。先生の凝縮された、美意識の光が、あるときは強く、あるときはやわらかな明りとなって、求めゆく私たちの道を照らしてくださったように思っております。(宇都宮とよ「弔辞」より『心の花』2011年6月号)

・一千四百三十メートルの頂きに有る潮の青おもひて眠る 『半窓の淡月』
・青嵐のただなかにゐて豊かなり吾に子のあり子に妻のある
・しなやかに野を跳ぶ豹も見ず終るわれの一生か多摩川の辺に
・輝くと言へど宇宙に浮かびゐて太陽も時にさびしくあらむ 『一茎の草』
・一茎に一華掲げてひまはりの丈高し梅雨もすぎてゆくらし

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竹山 広(たけやま・ひろし)
(1920-2010)
長崎県に生まれる。
21歳で「心の花」に入会。

竹山広さんは1940年代からの「心の花」の会員である。中断ののち50年代後半に復帰されている。竹山さんの歌は70 年代に入ったころから当時の若者た ち(私たちの世代である)に注目され、愛読されはじめていた。はやく76年に晋樹隆彦が「原爆短歌の発見」と題する竹山 広論を「心の花」8月号に書いてい る。私も当時から竹山作品を愛読しており、というよりファンの一人であって、後に記すように作歌時の指標にさせてもらっ ていた。
(佐佐木幸綱『竹山広全歌集』解説)

竹山作品は怖い。〈本当のこと〉をうたってしまっているからである。〈本当のこと〉はときに暴力的に私たちの常識や建前を侵犯する。私たちは当たり障りのないように、建前や表皮を言うことですませようとする。〈本当のこと〉を言ってしまっては終わり だ。目に見えている事実の奥のもう 一つ向こう側。言ってしまったら元も子もないそこを、竹山はあえて表現する。竹山作品に毒のにおいがし、危険の気配が感 じられるのはそのためである。 
 (佐佐木幸綱『竹山広全歌集』解説)

現代は、遠慮がちな老の歌、若者にへつらうような老の発言が多いなかで、竹山はやはり断固〈本当のこと〉をうたい切 る。このユーモアの切れ味。このしたたかさ。そしてその向こうに見えるほのぼのとした明るさ。

こらへ性なき若者に来む老を愉しみてながき沈黙をせり 『射禱』
あと三年生きてよといふ言ひ方の何がなんでもといふひびきなし
死ぬに死ねぬなどと大袈裟にいふ人に送られてよき月下に出でつ

そして、優しい歌、美しい歌をも上げなくてはならない。

うたひ終るまでひとたびも瞬かぬ歌手ありき良き妻たりをらむ  『射禱』
往きに轢きし花びらの上のあたらしき花びらをまた轢きて戻りく
二十六歳の骨うつくしく遺しゆきぬ豊かに固くもの言はぬ骨

私は竹山広のこういう歌が好きだ。ここに見る優しさと美しさは〈本当のこと〉の中にだけある優しさと美しさだからであ る。
 (佐佐木幸綱『竹山広全歌集』解説)

・美少年竹山広春日原球場に凡フライをあげき 『射禱』
(中略)この歌には、特別なドラマはなにもないが、だからこそかけがえのない人生の時間が刻まれている。まだ見えない未 来へ向かう心と体の記憶が、ひとと き呼び戻される。竹山広の作品を繰り返し読みながら、またこの一首の魅力をあらためて考えながら、わたしは思う。竹山広 の歌の源にあるのは、たとえば野球 少年であったような、ありきたりで健やかな日々への愛惜ではないかと。
戦争への強い怒り。時代や社会への厳しい批判精神。ときに愛情深くときにシニカルな他者への眼差し。生活の周辺にある 物たちへの慈しみ。それらの遠い遠い時間の源に、凡フライをあげた少年の姿が見える。それは、ありきたりで健やかな人間 の姿なのである。
 (小島ゆかり「凡フライをあげた少年」 「心の花」創刊110年記念号)

居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ
五〇〇〇人を越えたる死者のなほ増ゆる数は小さき活字にて出づ
『千日千夜』の初めにある「激震」から二首。「平成七年一月一七日、午前五時四十六分。」と詞書がある。竹山七十五 歳。
身内が嫁いでいた阪神豊中、幸い無事であったが、作歌をうながしたモチーフは身内にとどまらず全人への深く尊敬に満ち た愛惜である。被爆という人災と大 地震という天災と、竹山は人と天、時と空を越えて人間の「運命」や「業」を全力で詠んだ。その収穫が二首にとどめをさし ている。
かつて誰が〈天運にして居合はせし人よ〉と状況を相対化して詠むことができたか、どのメディアが幾千の死者にもかかわ らず〈数は小さき活字にて出づ〉と 認識したであろうか。〈天運にして居合はせし人よ〉の呪文ともいえる表現こそ、被爆体験を経、生活の労苦を負い、たんた んと作歌をつづけてきた老歌人の慟 哭であり、また詠嘆であった。人為のなせる原爆と天空のなせる地震と、両者の異なる位相を鮮明に把えて秀歌になした根底 には、党派や政治的立場や似非平和 主義者には目もくれなかった竹山の姿勢がつらぬかれていたのである。
もう一度いおう。ドキュメンタリズムの手法と反核反戦平和を核として詠んできた竹山だが、決して反体制の立場をもって 詠んできたのではなかった。むしろ逆で、一被爆者として、ひとりの弱い人間として、三十一文字の好きな一歌人として定型 詩を貫いたのだった。
 (晋樹隆彦「日常と極限――竹山広の文学」 「心の花」2010・10)

一度だけ竹山邸を訪ねたことがある。三枝昴之が竹山さんにインタビューするのに同行してお邪魔したのだった。もの静か な妙子夫人は、竹山さんの歌の中の 「妻」そのまま、お茶のもてなしのみに部屋を出入りしつつ、竹山さんを控えめにサポートしていた。インタビューを終えた あと、竹山さんとわたしたち夫婦 は、馬場昭徳氏もまじえて夕食を、ということになり、街に出る車に乗った。そのとき、隣に座った竹山さんがわたしに言っ た。
「僕よりもね、家内の方がいい歌作りますよ」
 (今野寿美「宥したまはず――竹山広における受容の心」 
「短歌往来」2010・9)

歌集
『とこしへの川』 1981
『葉桜の丘』 1986
『残響』 1990
『一脚の椅子』 1995
『千日千夜』  1999
『射禱』 2001
『遐年』 2004
『空の空』 2007
『眠つてよいか』 2008
『地の世』 2010
『竹山広全歌集』 2001

人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら  『とこしへの川』
おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき  『残響』
まゐつたと言ひて終りたる戦争をながくかかりてわれは終りき 『射禱』
三十年前の大家の奥さまが日傘を上げてあらーといへり 『空の空』
あな欲しと思ふすべてを置きて去るとき近づけり眠つてよいか 『眠つてよいか』

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築地正子(ついじ・まさこ)
(1920~2006)
東京小石川生。実践女専国文科卒業。1941年「鶯」入会。1946年に熊本県玉名郡長洲町に移住し2002年東京へ戻るまで同地に暮らす。地球上のあらゆる存在は「対等」である感覚の上に作歌。歌集『花綵列島』にて現代歌人協会賞受賞、『菜切川』にて現代短歌女流賞受賞、『みどりなりけり』にて詩歌文学館賞等を受賞している。

歌集
『花綵列島』1979年
『菜切川』1985年
『鷺の書』1990年
『みどりなりけり』1997年
『自分探し』2004年
『築地正子全歌集』2007年

「<自然>と<人間>とは、現在もなお、調和して生きることができるのだろうか。私たちは当面するこの問いに対して悲観的であらざるを得ないが、そんなわたしたちに勇気を与えてくれるのが築地正子の短歌である。私たちは築地の歌の世界に触れることによって、草が木が、鳥が大地が、なんと清新に日々生動しているかをあらためて知らされる。そして、自らの生を、自らの日々を新たに思うのだ。」佐佐木幸綱『花綵列島』帯文より

卓上の逆光線にころがして卵と遊ぶわれにふるるな 『花綵列島』
文芸の毒かみしむる冬の顔 紅あざやかに唇にひきつつ 『菜切川』
モジリアニの絵の中の女が語りかく秋について愛についてアンニュイについて 『鷺の書』
・蝶の眼に見えてわが眼にみえぬものこの世に在りて闇に入る蝶 『みどりなりけり』
・絵より詩へ漕ぎいだしたるたましひの帰郷を待てる青麦畑 『自分さがし』

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須田昌子(すだ・まさこ)
1924-
東京都出身
歌集 『木立の奥』 2008年 雁書

自選5首
夕霧が木立の奥へ流れゆき少女が犬を曳きて帰りきぬ  『木立の奥』
この家の誰が記せる三月の月・水の上の○と△
向き合ひて坐りをりしに覚えをらず西日暮里に下りて思ふも
水呑場かぜに若葉の騒めきてちろちろと水は唇を避けたり
顔上げて聞き返すとき八宝菜の袋茸ひとつ喉をすべりぬ

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石川一成(いしかわ・かずしげ)
(1929―1984)
千葉県佐原市生まれ。
東京文理科大学で漢文学を専攻。
1951年、「心の花」入会。
信綱・治綱に師事する。
教職を経て、日本語講師として2年間、重慶に赴任。

スイスの羊飼いが使ったという鈴が、大きくガラガラと響く。奥の間から和子さんが出て来られる。「この一年間の『心の花』を持っていらっしゃい。」と命じられる。私の歌ののっている欄を全部開かせ、早口で次から次へとお読みになる。癇癖のつのっていくお声であった。五、六十首もあったであろうか。米寿に近い先生のお体に障りはすまいかとはらはらするものの、私にはどうするすべもない。巻を閉じられて「もう少し勉強なさい。」と一言。
(石川一成「ある日の佐佐木信綱先生 明治人の若さとはげしさ」「短歌」昭和39年2月号)

石川一成は、うたいたいことを多くもっている歌人ではない。あれもこれも、何でもかんでも五句三十一拍一応歌のかたちにしてみせるといったいいかげんな歌詠みとは全くちがう次元にいるのだ。彼はあらゆるものを削ぎ落し、ひたすら中核に接近しようとしている。当っているか、当っていないか、私はその中核に沈黙があると見ているわけだが、とにかく彼の歌は、うたうことはうたうその一事の他の一切を捨てることなのだ、という潔さと激しさを如実に体現している。石川の歌が色彩を厳しく拒否していることもこのことと深くかかわっているわけで、私は現代短歌界の一つの事件として石川のモノクロームの世界を受け衝撃を受けたのであった。
(佐佐木幸綱「石川一成論―沈黙について」 『麦門冬』解説)

率直にいうならば、石川氏の作品は読者におもねるとか、人の気を引きつけるとか、の類のものではない。愛誦性や大衆性を質的に拒絶しているタイプの歌人であろう。まず、読んでいて飽きることがない。人間の存在とは何か。一個の存在が自然と対峙する時の強さ弱さを、じわじわと考えさせてくれる質の歌だからである。
わたしは、感傷性や哀傷性を本質的に持っている歌人、たとえば近代では若山牧水、今日では福島泰樹のような歌人に注目するが、愚直なほどに自己の魂を見極める石川一成氏のような歌人にも注目したい。単に巧みな歌なら、わたしは毎日のように読む機会を得ているつもりである。石川氏の短歌はそうしたテクニックの次元では律しきれない。 否、歌とはテクニックで律しきれるほど甘い詩型ではないからこそ、わたしが石川氏の歌に深く関心を持つ理由なのである。
(晋樹隆彦「石川一成論―自然と対峙する魂の歌人」 『沈黙の火』解説)

枯葦の原をひとすぢ走りゆく風の軌跡の閃きてなほ

 「歌を、苦しんで詠んだことがありますか。」と石川先生はたずねられた。そして「こ
 の枯葦原の一連を仕上げるために、私は本当に苦しみました。」とも話された。
『麦門冬』をひもとくたびに甦る場面である。
(白岩裕子「心の花」歌人の一首 「心の花創刊一〇〇年記念号」)

憧憬のなかに、自分の作品をきずいていってはならぬ。貧しくとも自分の臍の緒のついた歌を詠まねばならぬ。
(石川一成『麦門冬』あとがき―私における短歌―)

歌集『麦門冬』(ばくもんとう) 1975
『沈黙の火』  1984
『長江無限』 1985
『石川一成全歌集』 1992

風を従へ坂東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か 『麦門冬』
流動を深き処に蔵(かく)しゐる坂東太郎を思ひて眠る
一点に凝りて空より堕ちきたる火がありおのれの沈黙(しじま)のなかに『沈黙の火』
長江も黄河もなびけこの雨になびかざるなしなびきてゆかん『長江無限』
重慶にわれは一つの火を抱き来たりしものよその火は消さじ

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木島 泉(きじま・いずみ)
(1932-?)
岐阜県生まれ

歌集
『風のやまびこ』 2002年  桐葉出版

自選5首
人の幅だけの細道雪の道猫とわたしが踏んで行く道 (歌集以降)
水の面に言葉沈めて聞くように雪限りなく透明となる
芋洗う石臼誰かに持ち去られ清水に残るまあるい凹み
とびこんで膝に落ちつく黒猫をしばらく抱いて今日の平穏
百までも生きてみようか背伸びする冬天抜けるほど蒼い

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久家基美(くげ・きみ)
(1932-2018)
茨城県生まれ

歌集
『二十四気』 1979年 白凰社
『野火』  1981年 白凰社
『再生』  1983年 白凰社

自選5首
営々と草に微光を撒く風の傷みをも撒き野は半夏生  『二十四気』
影のみの吾を野末に待ち伏せてまなこ濃くゐむ冬のもののけ
とどまるは吾と丘のみ昼すぎのゆるき時刻が曇りを運ぶ  『再生』
わが思惟の極みに青き岬あり 夏幾日かをここに過ごさむ
父の死後兄の死後野は冥かりき冥さはときに乱れを救ふ

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石川不二子(いしかわ・ふじこ)
(1933-2020)
神奈川県生まれ

歌集
『円型花壇』 1958年 「短歌」2月号綴込
『牧歌』 1976年 不識書院
『野の繭』 1980年 不識書院
『鳥池』 1989年 不識書院
『鳩子』 1989年 不識書院
『さくら食ふ』 1993年 不識書院
『水晶花』 1996年 短歌研究社
『高谷』 2000年 短歌新聞社
『ゆきあひの空』 2007年 不識書院
『石川不二子歌集』 1986年 国文社(現代歌人文庫)

代表5首
のびあがりあかき罌粟咲く、身をせめて切なきことをわれは歌はぬ  『牧歌』
きさらぎの闇やはらか に牛眠りその頭上にはにはとり眠る  『野の繭』
葉ざくらとなりて久しとおもふ木のをりをりこぼす白きはなびら  『鳩子』
うつとりと桜の花芽啄めるくちばし動き喉(のど)がうごけり  『さくら食ふ』
ゆきあひの空の白雲 のど太く鳴く鶯もいつか絶えたり  『ゆきあひの空』

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今泉  進(いまいずみ・すすむ)
(1934-2013)
 埼玉県生まれ

歌集
『冬の雷郎』
『天の狩人』 2003年 ながらみ書房
『片翅の蝉』 2016年 ながらみ書房

代表5首
身を屈め歩みゆくとき雷郎の怒り激しく我に鳴りたり  『冬の雷郎』
目見(まみ)暗く二つの組織が向き合える寂しさにいて職場と呼べり
帰るべきところあらぬか暗む瀬に幻のごと鷺一つ立つ  『天の狩人』
ひと握りひと握りずつ稲を刈るかなしみを刈るごとき父見ゆ
遥かなるものは美(は)しきと眼鏡をはずして仰ぐ天の狩人

 

高辻郷子(たかつじ・きょうし)
(1937-2016)
北海道生まれ

歌集
『座標』 1992年 ながらみ書房
『農の一樹』 1997年 雁書館
『農魂の譜』 2002年 ながらみ書房
『銀漢を聴く』2009年 ながらみ書房

自選5首
流氷の見えざる海の荒ぶりに押しあげらるる太陽一つ  『農の座標』
氷泥をだぶんだぶんと打ち上げて結氷を告ぐる海の肉体  『農の一樹』
北こそは夢とうつつの交差点ひとつらの鳥の影が過ぎゆく 『農魂の譜』
やさしさは空より降り来 喜雨 甘雨 郭公の声 雲雀のことば
二反歩の野菜畑にも夢がある 南瓜が咲いた 花豆咲いた 『銀漢を聴く』

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小紋 潤(こもん・じゅん)
(1947-2018)  
本名・小島義明 元・雁書館編集者

歌集 『蜜の大地』 2016年 なが らみ書房

作品5首[谷岡亜紀選]
銀河系、その創(はじ)まりを思うときわが十代の孤り晶(すず)しも
雨に濡れて紫陽花咲(ひら)く稚(わか)ければ藍より青きことを信じる
天の川かかる夕べの庭に立つこよなく澄めば祈りは叶う  「心の花」1984/6
いつ来てもライオンバスに乗りたがるライオンバスがそんなに好きか
夢ひらく水木の花に沿ひてゆくお前のゐない動物園で 「短歌往来」1996/7

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住 正代(すみ・まさよ)
(1935-2015)
岐阜県生まれ

歌集
『赤い蠟燭』 1990年 ながらみ書房
『夢に殉う』 1996年 ながらみ書房

自選5首
ゆりかごの歌うたおうか生涯にたった一人のわが子の通夜  『赤い蠟燭』
さくらんぼ飾れば赤き真日くれて子を待つ不思議な月日すぎゆく
夢に呼吸(いき)とめて殉(したが)いゆきしかど嫩き木の花 膠(にべ)もなく匂う     『夢に殉う』
千余日ひとつの遺影みつづけしわれの無惨を尾長がゆらす
なみだ涸れはつるしずもり俯きて息子イエスの絶命を抱く(ピエタ)

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