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心の花の歌人2


佐佐木信綱
石槫千亦  新井洸   印東昌綱
大塚楠緒子    
片山広子
富岡冬野
石川一成
三浦守治
安藤 寛
柳原白蓮
橘糸重
竹山広




佐佐木信綱(ささき・のぶつな)

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石槫千亦(いしくれ・ちまた)
(1869−1942)
現在の愛媛県西条市に生まれる。
 
  「明治26年竹柏会に入って以来、昭和17年8月に歿するまで
   50年間にわたって、よく信綱を輔佐し、また、「心の花」は
   創刊以来、千亦を編集責任者として来た。信綱先生が、歌人、
   学者として大成された蔭の功労者としても千亦の名を逸する
   ことはできないであろう。」
        石川一成「心の花小史 心の花の歌人と作品」より

水難救助会に勤務、職業柄、海に接する機会が多く、海の歌を多く残し
「海の歌人」と呼ばれている。

歌集 「潮鳴」   1915
   「鷗」    1921
   「海」    1934
   「病床日誌」 1942

黒ずめる海を抉(えぐ)りてまろまろと夕日は深く沈みゆくらし
ならべ干せる烏賊の生干(なまび)のするどき香ただよふ中の裸の子等よ
燈台に灯(ひ)の入る時も近からむ船の上ふく風冷えて来ぬ
あれ狂ふ雨風の中を声高に船危しとさけびさけび走る
大かたはおぼろになりて吾が眼には白き杯一つ残れる




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新井洸(あらい・あきら)
(1883−1925)
現在の東京都中央区生まれ。
東京府立第一中学校卒業後、絵を藤島武二に学ぶ。
尾崎紅葉門下になった時期もある。
15歳にして佐佐木信綱に師事。木下利玄・川田順とともに「三羽烏」と呼ばれた。
水難救助会に勤務、同僚の古泉千樫と相互に影響を受けながら作歌した。

  「名匠の風格を備え、鋭敏華繊、抒情豊かな作品を『微明』一巻に
   残して、貧困の中に胸を病んで死んだ。千亦の渋滞のない詠みぶり
   に対して、苦吟の横綱ともいふべく、珠玉の作品はこの間になった。」
         安藤寛「心の花」昭和39年4月号「竹柏園門流」より

歌集 『微明』    1916
   『新井洸歌集』 1931
 
人間のいのちの奥のはづかしさ滲(し)み来るかもよ君に対(むか)へば
日の暮を風船売(ふうせんうり)の残りもの風船玉の夕明(ゆふあかり)かな     
うつつなく流れただよふ夕明り仏足石を見せたまひけり
心のまづしき日なり濡れたをるしみじみと目にあてにけるかも
すゑものの壷の花瓶ははな挿さず今朝この部屋になべてうつろなり




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印東昌綱(いんどう・まさつな)
(1877−1944)
現在の三重県松阪市に生まれる。
佐佐木信綱の実弟。
国語伝習所に学び、22歳のときに印東家を継ぐ。

  印東昌綱の歌は、限りないやさしさと豊かな趣味性に支えられたものが主流をなしている。
  やさしさは人事にも自然にも及び、素材として、険しいもの、荒々しいものは、その対象
  からはずされ、諧調に充ちたもののみが選びとられる傾きをもつ。
  激しい荒海を前にしても、
   こちごちに突つたつ岩は岩なりにさからはで波の睦び寄するも
  と、その荒さのなかに優しいものを認め、そこに視線を集めてしまうのである。
                  石川一成「心の花小史 心の花の歌人と作品」より

  幼くよりかよわかりし身を、父君のいとほしがり給ひて、書よまんよりも先づ其身を
  いたはれとのたまひしかば、御教うけし事も多からぬ間に、父君失せさせ給ひ、殊に
  我身をあはれび給ひし母君も、三年をこえぬ程に世を去り給ひぬ。
  わが身はた病を得て、好めるままに学びそめし絵のわざをも半にして打すて、この
  鏡の浦に移り住みしより、折々に物せし歌文の草稿を、兄君の許に送り置きしに(以下略)
                   印東昌綱『磯馴松』「おくがき」より

歌集「磯馴松」  1903 信綱との共著、歌文集
  「かへりみて」1922 
  「家」    1934
  「細雨」   1941

やや癒えし身を籐椅子に横たへて赤とんぼ飛ぶ夕庭を見る
万物の音ひとしきり中空にただよふなして暮れゆく東京
とけやらぬ昨日の雪の風さえてみ寺の鳩もひくく遊べり
或時はあなづらはしう思ほえて冷たき壁の隅を見つむる
須田町に鉄道馬車が通ひし日兄におはれて見に行きたりし



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大塚楠緒子(おおつか・くすおこ)
(1875 −1910)
現在の東京都千代田区に生まれる。
お茶の水高女を首席で卒業。
学生時代に佐佐木弘綱に入門、弘綱没後は信綱に学ぶ。
歌集はない。
小説では最初に尾崎紅葉に、のちに夏目漱石の指導を受け、閨秀作家として名を馳せる。
短編集「晴小袖」、長篇「露」がある。

  人つどひささめく声につつまれて/いよいよ我ぞさびしかりける
                      (竹柏園集第一編)

この歌について大口玲子は次のように書いている。

  名家に生まれ、容姿にも恵まれた作者は、小説や詩、戯曲、音楽、語学など多方面に才能を
  発揮した。心の花の合同歌集『あけぼの』には、有名な反戦詩「お百度詣」が収録されている。
  外見はなに不足ない生活を送っているはずの作者が、群衆の中でふと感じた孤独、寂寥感は、
  孤立したまま深まってゆく。
          『名歌名句辞典』佐佐木幸綱・復本一郎編(三省堂)

桜ばなさきみちしより木のもとの/すみれは人にふまれつつのみ
胡蝶さへとはじと思ふ草の中に小さき花をわれぞ見出でし
たてよこにうねりくねれる学者町小さき家に人にかしづく
男みなひざまづかむを口惜しきは女王めきたる容色のなき
けさ死ぬか暮に死ぬかといふ妻に小鳥を見する枕辺の夫(つま)[辞世]



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片山広子(かたやま・ひろこ)
  (1878−1957)
現在の東京都港区に生まれる。
東洋英和女学校を卒業と同時に佐佐木信綱に入門。
22歳の時、日本銀行理事片山貞次郎と結婚。
松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳家としても活躍した。
芥川龍之介との親交は有名で、「あの人にだけは敵わない」と言わせたというエピソードがある。
堀辰雄の『聖家族』のモデルとも言われている。

  前川佐美雄氏が、片山さんはスタイリストだった。とズバリ一言に評したのも諾えるので
  ある。たとえば、いつといって彼女の病床に花の置いてあるのを私は見たことがない。
  それは心境として花なんぞに甘える必要がなかったのだと思われるが、一面、病臥には
  型通り花のある世俗の風習が彼女には我慢できなかったのだともいえる。
           栗原潔子「片山広子素描」短歌研究 昭和38.3

歌集『翡翠』(1916)
  『野に住みて』(1954)
エッセイ集『燈火節』(1953)

ああ我は秋のみそらの流れ雲たださばかりにかろくありたや
わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く
紅梅の大き枝もち行く子あり三月なりと心あわてる
けふわれのかけし祈願はしら雪のふりつもる冬まで待ちてみむとす
古き帯の値に得たる千円を働きてとりしごとく錯覚す



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富岡冬野(とみおか・ふゆの)
  (1904−1940)
京都市生まれ。
1919年、竹柏会入会。

   富岡鉄斎を祖父に、学者である桃華を父として、京都の伝統的な美意識の
  なかに育まれ、何よりも本物に、美しいものに対して俊敏であった。
    山をもて四方かこまれし町に住み終(つひ)にのがるる日なきに似たり
    ふるさとの大き樹しげり暗き家にひねもす何もせずゐし娘
   その聡明闊達自在ともいえる人となりをもってしても、閉塞された時代を
  こじあけることはできなかった。
   懊悩し、煩悶した挙句、家にこもり、京都に縛りつけられる以外には自分
  の生きざまはないのかと考えた時代の歌である。
               石川一成「心の花小史・心の花の歌人と作品」

   冬野さんは松崎君に嫁ぎ、上海にいつて彼の地でなくなられた。心の花
  四十四巻七号の冬野さん追悼号には、内外の知人の多くの歌文が掲げてある。
                    佐佐木信綱『ある老歌人の思ひ出』

歌集   『微風』 (1924)
遺歌文集 『空は青し』(1941)

うつろなる家の静もり鍵かけて出づる扉は日にぬくみゐし
日の暮は疲れはてたるわが手より落ちてはこはるる物の音する
うつつなく春こそ来つれうつつなく山櫻こそ咲きそめにけれ
楡の樹も空なる雲もかささぎもわれを見知らぬ街にきて住む
百年はたやすく過ぎむ遠(をち)方にかたむきたてる塔を見ながら




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石川一成(いしかわ・かずしげ)
  (1929―1984)
千葉県佐原市生まれ。
東京文理科大学で漢文学を専攻。
1951年、「心の花」入会。
信綱・治綱に師事する。
教職を経て、日本語講師として2年間、重慶に赴任。

  スイスの羊飼いが使ったという鈴が、大きくガラガラと響く。奥の間から和子さんが  
 出て来られる。「この一年間の『心の花』を持っていらっしゃい。」と命じられる。私の
 歌ののっている欄を全部開かせ、早口で次から次へとお読みになる。癇癖のつのってい
 くお声であった。五、六十首もあったであろうか。米寿に近い先生のお体に障りはすま 
 いかとはらはらするものの、私にはどうするすべもない。巻を閉じられて「もう少し勉   
 強なさい。」と一言。
          (石川一成「ある日の佐佐木信綱先生 明治人の若さとはげしさ」
                   「短歌」昭和39年2月号)

  石川一成は、うたいたいことを多くもっている歌人ではない。あれもこれも、何でも
 かんでも五句三十一拍一応歌のかたちにしてみせるといったいいかげんな歌詠みとは全
 くちがう次元にいるのだ。彼はあらゆるものを削ぎ落し、ひたすら中核に接近しようと
 している。当っているか、当っていないか、私はその中核に沈黙があると見ているわけだが、
 とにかく彼の歌は、うたうことはうたうその一事の他の一切を捨てることなのだ、という潔さ
 と激しさを如実に体現している。石川の歌が色彩を厳しく拒否していることもこのことと深く
 かかわっているわけで、私は現代短歌界の一つの事件として石川のモノクロームの世界を受け
 とり、衝撃を受けたのであった。
           (佐佐木幸綱「石川一成論―沈黙について」 『麦門冬』解説)

  率直にいうならば、石川氏の作品は読者におもねるとか、人の気を引きつけるとか、
 の類のものではない。愛誦性や大衆性を質的に拒絶しているタイプの歌人であろう。ま
 ず、読んでいて飽きることがない。人間の存在とは何か。一個の存在が自然と対峙する
 時の強さ弱さを、じわじわと考えさせてくれる質の歌だからである。
  わたしは、感傷性や哀傷性を本質的に持っている歌人、たとえば近代では若山牧水、
 今日では福島泰樹のような歌人に注目するが、愚直なほどに自己の魂を見極める石川一
 成氏のような歌人にも注目したい。単に巧みな歌なら、わたしは毎日のように読む機会
 を得ているつもりである。石川氏の短歌はそうしたテクニックの次元では律しきれない。
 否、歌とはテクニックで律しきれるほど甘い詩型ではないからこそ、わたしが石川氏の
 歌に深く関心を持つ理由なのである。
      (晋樹隆彦「石川一成論―自然と対峙する魂の歌人」 『沈黙の火』解説)

   枯葦の原をひとすぢ走りゆく風の軌跡の閃きてなほ   
 「歌を、苦しんで詠んだことがありますか。」と石川先生はたずねられた。そして「こ
 の枯葦原の一連を仕上げるために、私は本当に苦しみました。」とも話された。『麦門
 冬』をひもとくたびに甦る場面である。
          (白岩裕子「心の花」歌人の一首 「心の花創刊一〇〇年記念号」)

  憧憬のなかに、自分の作品をきずいていってはならぬ。貧しくとも自分の臍の緒のついた歌
  を詠まねばならぬ。
                 (石川一成『麦門冬』あとがき―私における短歌―)

歌集『麦門冬』(ばくもんとう) 1975
  『沈黙の火』       1984
  『長江無限』       1985
  『石川一成全歌集』    1992

風を従へ坂東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か 『麦門冬』
流動を深き処に蔵(かく)しゐる坂東太郎を思ひて眠る
一点に凝りて空より堕ちきたる火がありおのれの沈黙(しじま)のなかに『沈黙の火』
長江も黄河もなびけこの雨になびかざるなしなびきてゆかん『長江無限』
重慶にわれは一つの火を抱き来たりしものよその火は消さじ





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三浦守治(みうら・もりはる)
(1857 −1916)
福島生まれ。
東大医学部を首席で卒業(森鷗外と同級)。
ドイツに留学、病理学を専攻し、東大教授に。
1898年、竹柏会入会。14歳年下の信綱に師事。

佐佐木信綱に「人間性を表現せる歌人」という長い評論がある。
(『佐佐木信綱文集』1956 所収) 
以下、冒頭部分を引用する。

  和歌史上において、最も欠けてをるのは、作者が偽らぬ自己を語り、人間性を表現した作である。従つて和歌史上、人間研究の対象とするに足る歌人及びそ の作品が乏しい。これは万葉以後明治以前までは、偉大な個性を持つた人で歌を詠んだ人でも、多くは伝統的思想に従つて、専ら自然の風物四季折々の情趣など を歌つて、自己を語らなかつた故であろうと思ふ。
  近世の思想家として、学者として、歌人としての内的生活を舒べ、或は、広く人間性に触れた作者を求めると、江戸期の吉川惟足、平田篤胤、橘曙覧、
 大隈言道、明治初期の福田行誠等を挙ぐべきであらう。
  明治の末期から大正初期へかけての歌人の中では、「移岳集」の作者医学博士三浦守治君こそは、その人格と歌風とが一致して、人間性を表現せる歌人とい ふべきである。

 石川一成は「人間性を表現せる歌人」について「壮年以後の先生(=信綱)
の歌風を解く鍵さえ秘めていると私は考える」と書いている
(「心の花小史 心の花の歌人と作品」)。

歌集 『移岳集』(1915)
   『三浦守治先生歌集』(1923)

雲の上に心は遣(や)らじ久方の天の下にし住めばことたる
天地にせぐくまりをれど限なくのびにのびゆくわが心かも
老いて世をさとりがましくふる吾の昔は鬚(ひげ)も何もなかりき
地を出でて二日も経ざる竹の子にたけくらべして我はまけにけり
生(いき)の緒に思ひし我が文燕くる春にしなりても未だ書きをへず





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安藤寛(あんどう・ひろし)
(1892 ―1993)
佐賀県生まれ
1919年、竹柏会入会。新井洸に師事。

  安藤寛の歌には、一応二つの傾向を見ることができる。一には叙景歌、二には
 叙情歌の系列である。更に叙情歌は、思郷の歌と家族を中心とする人間愛の歌に
 分かれよう。叙景歌の骨法は、石槫千亦を中心とする大正期の曙会の中で体得した
 ものであり、抒情歌は生得の情愛の濃かさに加えて、新井洸より学んだものといえ
 るであろう。
「心の花」1001号(1982年)石川一成「叙景にこもる愛」

  歌人としての寛の人生をかえりみる時、長寿と言われたその年齢にかかわる歌にも
 触れないわけにはいかない。
   九十五歳を迎へし吾れを傍らに八十七歳の妻言葉少なし
   何れが先か茶の間に語り笑へどもわれを残して逝くべきならず
  長寿とは、皆に祝われながらその幸せをかみしめていればよい、というものでは
 ないようである。特に、寛九十五歳の冬に、六十八年間を共に歩んだ夫人を失って
 以降、老いを受け入れることは、常に苦しみを伴ったようである。
   火燵(こたつ)して居れども寒し七月の装ひはいまだ衣(きぬ)を減らさず
   九十にて逝くべき命長らへて日日を苦しむ百の年齢を
   高き齢を享けて豊かに生(よ)を如何にあるべき老か日日の空しき
「心の花」創刊100年記念号(1998年)白岩裕子「百歳の思い」

  満百歳の大往生に至るまでの晩年の作品は、具体的な数字の重みを駆使しつつ、
 どこか軽みを感じさせて味わい深い。
           『現代短歌大事典』(2000年 三省堂)俵万智「安藤寛」

歌集 『山郷』(1963)
   『千林』(1972)
   『二水』(1987)
   『二水以降』(1988)

朝さめてきびしき寒さ天山に雪降りたりといふ声きこゆ
故郷の何にすがりて懐ひ出を追ふわれならむ帰り来りぬ
盛りあがり巻く渦の輪の激(たぎ)ち合ふ波先あらく最上はくだる
妻のもの嫁に拒(こば)みて濯(すす)ぎする手許の水に宿世を悟る
学び来し心の花の六十余年手に一千号命なりけり



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柳原白蓮(やなぎはら・びゃくれん)
(1885 −1967)
東京生まれ。本名・Y子(あきこ)。
伯爵・柳原前光(さきみつ)の次女。
1900年、竹柏会入会。
1911年、東洋英和女学校卒業。福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と結婚。
1921年、東京帝国大学の学生だった宮崎龍介のもとに出奔。
      朝日新聞に夫への絶縁状を発表して大騒動となる。

 白蓮の名を世に知らしめた第一歌集『踏絵』(中略) とりたてて名歌というものはないかも知れぬが、明治男権社会の生け贄さながらの半生を強いられた白 蓮という女性(数葉の写真を見ると、いかにも或る種の男たちの支配欲をそそるような蒲柳繊細な印象の美貌である)の時代へのあらがいの声がまぎれもない。 このあらがいの声において白蓮の歌は十分に明治の文学たり得ているかと思う。
        島田修三「白蓮という女性」(「心の花」創刊一〇〇年記念号)

『心の花』大正十(一九二一)年十一月号に、柳原白蓮と九條武子が一緒に書いた「別府より」と題したコラムが載っている。(中略)
「コラム」は、大正十年秋に武子が別府に白蓮を訪ね、何日か滞在したときに書かれたものだ。二人の師である佐佐木信綱宛に寄せ書きを送り、それが活字にさ れたと思われる。
「はるばると東の方をむかへて西片町のお稽古日のお話など御なつかしう承り候。
  まゆに似て細き月なり星おちぬかかる夕べは死もやすからむ   Y子
 たのしき日もあすにてつき候。あめも風もよその空、ここばかりは秋の天おだやかに美しうかがやき居り候。珍しくきのふ早おきいたしこんなもの拾ひ候。玉 か土くれか、土くれまでゆけば幸いに候。
  しずやかに太陽は君臨す我がむねに望みの魂もめざめける朝   武子」
 これがいつ書かれたか、日付が微妙である。十月二十日に白蓮は伊藤伝右衛門の家を出て宮崎龍介のもとへ走る。『心の花』の同じ号に、十月十三日付の文章 が載っている。つまり白蓮が家を出る直前に書かれた可能性が高い。白蓮の歌に「死もやすからむ」とある。本当に死が視野に入っていたのか。武子の文章の 「土くれまでゆけば幸いに候」は何を意味しているのだろうか。
 この時代の白蓮・武子の歌や文章は、心と言葉の間の距離が大きいので分かりにくい。この歌と文章にも分からない部分があるが、日付を入れるとだいぶ意味 が鮮明になる。
 佐佐木幸綱「白蓮と九條武子」
  (愛を貫き、自らを生きた 白蓮のように 柳原白蓮展 カタログより 2008年)

歌集 『踏絵』 1915
   『幻の華』1919
   『紫の梅』1924
   『流転』 1928
   『地平線』1956
詩歌集『几帳のかげ』1919
自叙伝『荊棘の実』(いばらのみ)1926
小説 『則天武后』1924
   『恋歌懺悔』1928
戯曲 『指鬘外道』(しまんげどう)1920

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前『踏絵』
追憶の帳のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥
さめざめと泣きてありしに部屋を出で事なきさまに紅茶をすする
英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壺よ振れば音する『地平線』




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橘糸重(たちばな・いとえ)
(1873 ―1939)
三重生まれ
東京音楽学校卒業、同校の教授を勤め、ピアニストとして有名。
第1回芸術院会員に佐佐木信綱とともに選ばれた。



  樋口一葉  1872(明5)〜1896(明29)
  橘 糸重  1873(明6)〜1939(昭14)
  大塚楠緒子 1875(明8)〜1910(明43)
  与謝野晶子 1878(明11)〜1942(昭17)
  片山廣子  1878(明11)〜1957(昭32)

 こうしてならべて見ると、五人の生年はわずか六年しか差がない。ほぼ同世代と見ていい。しかし、歌人としてのイメージはずいぶん異なる。一葉は「最後の 旧派歌人」、晶子は「始発期の新派歌人」のイメージである。まさに短歌史の過渡期だった。
 文学に目ざめた時期、読書体験、師系、歌人仲間などのわずかな差異が、過渡の時代には決定的な結果をもたらす。一葉は、後に記すように、江戸時代短歌の 伝統を守るグループに属して作歌し、旧派の歌を作った。与謝野晶子、片山廣子は、旧派の要素を抱え込みつつ新派の潮流にかろうじて乗った。橘糸重、
大塚楠緒子は、過渡の時代の空気をもろに浴びた歌人と位置づけられるだろう。旧派的でもあり新派的でもある微妙な短歌作品をのこした。
          佐佐木幸綱『橘糸重歌文集』解説


 和歌史家の立場からいふと、明治の和歌史を大観して、新しい歌が興つた後、はじめて沈痛な作を詠じたのが橘女史であつて、後にその跡を履んだのが白蓮夫 人である。
          佐佐木信綱「橘糸重女史」
(心の花 昭和14年10月号 橘糸重追悼特集)


 橘さんは写真を撮るのが一番嫌であつた。会の記念写真などには、いつも最後の列に加はつてゐて、パツとシヤツタ―を切つた時には、すつとしやがんで了 ふ。偶偶少数で前の方に居なければならぬ時には、見事にうつ向いて了ふ。その時刻を観ることのうまさ。斯くて正面きつたものがありとすれば、立派に国宝的 存在といつて宜い位のものだ。
          石槫千亦「橘糸重さん」(同上)

『橘糸重歌文集』 阪本幸男編著 短歌新聞社(2009)

つちかひし母君まさでこのあきはちひさくなりぬ庭のしらぎく 
『竹柏園集第1集』明34
涙なく悔なき一日もしあらば其ゆふぐれに死なむとぞ思ふ
                     「心の花」 明39年1月
ひしひしと寂しさ迫る大なる笑ひの渦の我めぐる時
                     「心の花」 大2年1月
わがこころひたに守りてとしをへぬむなしかりきやたふとかりきや
                     「心の花」 大6年1月
なりはひはかなしかりけりあやまちてピアノひく人となりしいくとせ
                     「心の花」 大7年9月





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竹山広(たけやま・ひろし)
(1920−2010)
長崎県に生まれる。
21歳で「心の花」に入会。

竹山広さんは1940年代からの「心の花」の会員である。中断ののち50年代後半に復帰されている。竹山さんの歌は70年代に入ったころから当時の若者た ち(私たちの世代である)に注目され、愛読されはじめていた。はやく76年に晋樹隆彦が「原爆短歌の発見」と題する竹山広論を「心の花」8月号に書いてい る。私も当時から竹山作品を愛読しており、というよりファンの一人であって、後に記すように作歌時の指標にさせてもらっていた。
(佐佐木幸綱『竹山広全歌集』解説)

 竹山作品は怖い。〈本当のこと〉をうたってしまっているからである。〈本当のこと〉はときに暴力的に私たちの常識や建前を侵犯する。
 私たちは当たり障りのないように、建前や表皮を言うことですませようとする。〈本当のこと〉を言ってしまっては終わりだ。目に見えている事実の奥のもう 一つ向こう側。言ってしまったら元も子もないそこを、竹山はあえて表現する。竹山作品に毒のにおいがし、危険の気配が感じられるのはそのためである。 
 (佐佐木幸綱『竹山広全歌集』解説)

 現代は、遠慮がちな老の歌、若者にへつらうような老の発言が多いなかで、竹山はやはり断固〈本当のこと〉をうたい切る。このユーモアの切れ味。このしたたかさ。そしてその向こうに見えるほのぼのとした明るさ。

  こらへ性なき若者に来む老を愉しみてながき沈黙をせり     『射禱』
  あと三年生きてよといふ言ひ方の何がなんでもといふひびきなし
  死ぬに死ねぬなどと大袈裟にいふ人に送られてよき月下に出でつ

 そして、優しい歌、美しい歌をも上げなくてはならない。

  うたひ終るまでひとたびも瞬かぬ歌手ありき良き妻たりをらむ  『射禱』
  往きに轢きし花びらの上のあたらしき花びらをまた轢きて戻りく
  二十六歳の骨うつくしく遺しゆきぬ豊かに固くもの言はぬ骨

 私は竹山広のこういう歌が好きだ。ここに見る優しさと美しさは〈本当のこと〉の中にだけある優しさと美しさだからである。
 (佐佐木幸綱『竹山広全歌集』解説)

 ・美少年竹山広春日原球場に凡フライをあげき『射禱』
(中略)この歌には、特別なドラマはなにもないが、だからこそかけがえのない人生の時間が刻まれている。まだ見えない未来へ向かう心と体の記憶が、ひとと き呼び戻される。竹山広の作品を繰り返し読みながら、またこの一首の魅力をあらためて考えながら、わたしは思う。竹山広の歌の源にあるのは、たとえば野球 少年であったような、ありきたりで健やかな日々への愛惜ではないかと。
 戦争への強い怒り。時代や社会への厳しい批判精神。ときに愛情深くときにシニカルな他者への眼差し。生活の周辺にある物たちへの慈しみ。それらの遠い遠い時間の源に、凡フライをあげた少年の姿が見える。それは、ありきたりで健やかな人間の姿なのである。
 (小島ゆかり「凡フライをあげた少年」 「心の花」創刊110年記念号)

  居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ
  五〇〇〇人を越えたる死者のなほ増ゆる数は小さき活字にて出づ
 『千日千夜』の初めにある「激震」から二首。「平成七年一月一七日、午前五時四十六分。」と詞書がある。竹山七十五歳。
 身内が嫁いでいた阪神豊中、幸い無事であったが、作歌をうながしたモチーフは身内にとどまらず全人への深く尊敬に満ちた愛惜である。被爆という人災と大 地震という天災と、竹山は人と天、時と空を越えて人間の「運命」や「業」を全力で詠んだ。その収穫が二首にとどめをさしている。
 かつて誰が〈天運にして居合はせし人よ〉と状況を相対化して詠むことができたか、どのメディアが幾千の死者にもかかわらず〈数は小さき活字にて出づ〉と 認識したであろうか。〈天運にして居合はせし人よ〉の呪文ともいえる表現こそ、被爆体験を経、生活の労苦を負い、たんたんと作歌をつづけてきた老歌人の慟 哭であり、また詠嘆であった。人為のなせる原爆と天空のなせる地震と、両者の異なる位相を鮮明に把えて秀歌になした根底には、党派や政治的立場や似非平和 主義者には目もくれなかった竹山の姿勢がつらぬかれていたのである。
 もう一度いおう。ドキュメンタリズムの手法と反核反戦平和を核として詠んできた竹山だが、決して反体制の立場をもって詠んできたのではなかった。むしろ逆で、一被爆者として、ひとりの弱い人間として、三十一文字の好きな一歌人として定型詩を貫いたのだった。
 (晋樹隆彦「日常と極限――竹山広の文学」 「心の花」2010・10)


 一度だけ竹山邸を訪ねたことがある。三枝昴之が竹山さんにインタビューするのに同行してお邪魔したのだった。もの静かな妙子夫人は、竹山さんの歌の中の 「妻」そのまま、お茶のもてなしのみに部屋を出入りしつつ、竹山さんを控えめにサポートしていた。インタビューを終えたあと、竹山さんとわたしたち夫婦 は、馬場昭徳氏もまじえて夕食を、ということになり、街に出る車に乗った。そのとき、隣に座った竹山さんがわたしに言った。
「僕よりもね、家内の方がいい歌作りますよ」
 (今野寿美「宥したまはず――竹山広における受容の心」 
「短歌往来」2010・9)

歌集 『とこしへの川』 1981
   『葉桜の丘』   1986
   『残響』     1990
   『一脚の椅子』  1995
   『千日千夜』   1999
   『射禱』     2001
   『遐年』     2004
   『空の空』    2007
   『眠つてよいか』 2008
   『地の世』    2010
   『竹山広全歌集』 2001

人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら 『とこしへの川』
おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき 『残響』
まゐつたと言ひて終りたる戦争をながくかかりてわれは終りき『射禱』
三十年前の大家の奥さまが日傘を上げてあらーといへり   『空の空』
あな欲しと思ふすべてを置きて去るとき近づけり眠つてよいか『眠つてよいか』





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