「心の花」新・百人一首


「心の花」2020年9・10月号の特集に掲載
「心の花」創刊100年記念号以来の「新・百人一首」である。


1 秋風の札幌大路旅人が白き衣のうらさびしけれ   石榑千亦(明治2~昭和17)
 歌集『潮鳴』(大正4年)所収。水難救済会の理事という職業柄、海を題材にした歌が多かったため、「海の歌人」とも称される石榑千亦。彼はとりわけ北海道の海や風土を愛し、多数の歌を遺したが、この歌はその中でも異色の作品である。「白き衣」の旅人は千亦自身のことと思われるが、この旅人の「うらさびしけれ」という描写に、どんなに北海道を愛していても、所詮自分は他郷の人間なのだ、という気持ちがにじみ出ている。(青山)


2 ぽつかりと月のぼる時森の家の寂しき顔は戸を閉(と)ざしける   佐佐木信綱(明治5~昭和38)
 『新月』(大正元年)の超現実派風の一首。夜空に煌々とのぼる月と、戸を閉ざして闇となっている森の家の明度の対比。どこの森か、だれの顔か、物語があるのか、謎に満ちている。「ぽつかりと」という口語的オノマトペを取り入れているのが特徴的である。大岡信の『折々の歌』などにも引用されている代表歌の一つ。(佐佐木定)


3 ただ一つこれただ一つなし得べき道とは知れど心おくれぬ   橘糸重(明治6~昭和14)
 東京音楽学校教授・ピアニストとして活躍した作者だが、短歌作品は孤独や鬱屈した心情を託つものが多い。引用歌や〈なりはひはかなしかりけりあやまちてピアノひく人となりしいくとせ〉には、屈折した思いが覗く。〈かなしさの限をききて別れ来しその夜おぼゆる雨の音かな〉〈わた中の人なき島に一人すみて命のかぎり君を待たまし〉には、恋の面影が偲ばれるようにも。いずれの作品も『橘糸重歌文集』(平成21年)所収。(河野)


4 たてよこにうねりくねれる学者町小さき家に人にかしづく   大塚楠緒子(明治8~明治43)
 女性作家の先駆け、日露戦争下での厭戦詩「お百度詣で」の作者として知られる楠緒子は、明治23年弘綱に師事。死後信綱に就き、旧派新派が入り混じる歌壇で活躍した。歌集は残さず、掲出歌は「心の花」明治43年2月号による。才能とそれを発揮する境遇に恵まれた楠緒子だったが、伝統的な良妻賢母の足枷からは逃れられなかった。「うねりくねれる」に屈折した心情が読める。夫は美学者の大塚保治。夏目漱石の思い人としても有名。(清水)


5 わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く   片山広子(明治11~昭和32)
 〈よろこびかのぞみか我にふと来る翡翠の羽のかろきはばたき〉等を含む瑞々しい第一歌集『翡翠』は大正5年の刊、広子は38歳だった。掲出歌は昭和29年、76歳での第二歌集『野に住みて』所収。翻訳家松村みね子としても大きな仕事を成した理知の人が、戦中戦後の厳しい時代、老いゆく己の生をどのように歌で支えていたかが窺える。孤高を保ちながらも遠い灯火のように人を恋う心は、終生変わらなかったのではないか。(梅原)


6 紫禁城を仰ぎて行けば陽は澄めり一線の上に次の門次の門   川田順(明治15~昭和41)
 第八歌集『鷲』(昭和15年)より。川田順は茂吉と同年にあたり、信綱と親交が深かった。晩年の昭和21年には当時の東宮御作歌指導役に就任するも、人妻との恋と自殺未遂にかかる騒動、いわゆる「おいらくの恋」で辞退した。近代を代表する心の花歌人という顔がある一方で、住友グループのトップという実業家の顔もある。多くの旅の歌があり、当該歌は伸びていく視点とリズムが心地よい。(御手洗)


7 翅(つばさ)なき人にしあれば夜ふかく水に舟うけて月に遊べり   新井洸(明治16~大正14)
 東京日本橋生まれ。信綱に入門、「心の花」入会。信綱の紹介で尾崎紅葉のもとで創作も行う。都市生活を静謐に詠う。『新井洸歌集』(昭和六年)の一首。翅があれば月まで行くのに、翅がないから水面の月で遊んでいる。飛翔へのあこがれを抱きつつ、視線は下に向かっているのが象徴的である。(佐佐木定)


8 小鳥きてかたみにくちをふふみあふみちあふれたる愛のしづけさ   柳原白蓮((明治18~昭和42)
 大正天皇の従妹に生まれ、九州の炭鉱王に嫁ぎ「筑紫の女王」と謳われた白蓮。この頃、出版された歌集『踏絵』では、愛のない結婚生活への嘆きが歌われていた。その後、夫のもとから出奔し、若き弁護士と結婚。二児に恵まれたが、長男は戦死を遂げる。戦後の白蓮は「悲母の会」を結成し反戦運動に尽力した。『地平線』(昭和31年)所収の掲出歌は、幾つもの深い悲しみをくぐり抜けた作者が到達した、静かに澄んだ境地を感じさせる。(清水)


9 この花は受胎(じゆたい)のすみしところなり雌蕊(しずゐ)の根もとのふくらみを見よ   木下利玄 (明治19~大正14)
 何と肉感的で明るい歌だろう。結句「見よ」の命令形に、命の根源を発見したような心躍りが宿っている。本歌を収めた第二歌集『紅玉』(大正8年)で、利玄は次々に早世する子らへの哀切な挽歌を挿みながら、草木や山、海、人のいる風景などを果敢に写生した。対象に宿る命の描写に迫力と優しさがある。〈うねり波たかまりあがり水底(みそこ)めがけ重みまかせに倒れたるかも〉〈山鴉ころ〳〵のどをならしつゝ梢になけりこれは朴の木〉  (梅原)


10 捨てられてなほ咲く花のあはれさにまたとりあげて水あたへけり   九条武子(明治20~昭和3)
 西本願寺大谷家の出身、天皇家とも姻戚の九條男爵に嫁いだ作者。布教活動に奔走する一方で、留学先から戻らぬ夫を待ち続けた。懊悩の日々にあって自分が何者であるかを歌の形で問い続け、自らの生きる力に変えていった集積が、第一歌集『金鈴』(大正9年)である。古典の流れを汲む優美な歌や激しい感情を吐露する歌の間に、掲出歌のような儚いものに心を寄せる優しい歌が置かれ、ほっとさせられる。花は自分の姿でもあろう。(梅原)


11 落ちきたる滝のとどろく勢(いきほ)ひは杉生にふるひ暗く地を揺る    安藤寛(明治25~平成5)
 佐賀県に生まれ、長崎高等商業卒。長く実業界で活躍した。大正8年竹柏会入会。新井洸に師事。「曙会」の一員として、石榑千亦の影響を受けた。この二人の先人それぞれの流れを汲む叙情歌と叙景歌に特長がある。右はその叙景歌の一首(『山郷』昭和38年)。安藤には滝を詠んだ秀歌がいくつかあるが、この歌では動詞が多く、一首に勢いを与えている。日本青年館での全国大会における、「安藤寛、百歳!」との挨拶は記憶に鮮しい。(黒岩)


12 春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ   前川佐美雄(明治36~平成2)
 先日、奈良を通ったとき、周りの山々が霞んでいた。そのとき掲出歌が思い出された。ちょうど昼過ぎでもあった。この歌からは春がすみの奥に隠された大和の土地の持つ力が強く感じられる。佐美雄は若い頃フランスに憧れた。しかし、フランスに行くことはなかった。佐美雄は『植物祭』のモダニズムの世界を幻想するところを離れてやがては日本の風土に根差した短歌を更新していくようになる。歌集『大和』(昭和15年)より。(服部)


13 南京路(ナーチンル)の夜のカフヱに小猫ゐてすゐつちよと遊ぶ秋となりぬる   富岡冬野(明治37~昭和15)
 富岡鉄斎を祖父に持ち、16歳で信綱に師事した冬野は、瞬く間にその才能を現した。しかし、結婚し夫妻でプロレタリア運動に身を投じていた間は短歌と距離を置く。プロレタリア運動崩壊後、歌作を再開するが、映画プロデューサーの夫と上海に渡りわずか35歳で亡くなる。掲出歌は死後編まれた歌文集『空は青し』(昭和16年)所収。五六首の上海詠は冬野の生涯を傾けた傑作。中でもこの歌は日本的伝統美とエキゾチズムの融合が見事。(清水)


14 桃むく手美しければこの人も或はわれを裏切りゆかん   真鍋美恵子(明治39~平成6)
 18歳で「心の花」に入会し、印東昌綱に師事。以来88歳で没するまで若々しい作品を作り続け、9冊の歌集を残す。素材は日常に求めながらも、私性を排し人間や世界の本質に迫る独特な作風を持つ。女人短歌会に発足から参加し、歌壇でも活躍。掲出歌は『玻璃』(昭和33年)所収。人物の「手」にのみ注目し、その手の美しさに裏切りの予感を抱く。手が持つのは瑞々しい命の象徴である「桃」。物の存在感を歌の中に強く残すのも特徴。(清水)


15 放念のかなたに浮かぶ雲ひとつ 甲斐に生まれて甲斐に死ぬべき   保坂耕人(明治41~平成15)
 保坂は昭和7年に「心の花」に入会。山梨県で長く教職に就き、校長職も務めた。昭和49年から「心の花」編集委員を務める。掲出歌は郷土への深い想いを詠んだ一首。人は様々な想いを抱きつつ生きている。当然、誰もが忘れたい出来事を抱えながら生きている。そんな中で保坂が選んだ生き方は故郷の「甲斐」で生き、「甲斐」で死んでいくという人生であった。「雲」は自身の比喩ともいえるだろう。第二歌集『岫(くき)』(昭和54年)より。(田中拓)


16 濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ   斎藤史(明治42~平成14)
 父は陸軍少将で「心の花」の歌人斎藤瀏。昭和2年、18歳で「心の花」に作品を発表。 モダニズムの結晶といわれる第一歌集『魚歌』(昭和15年)所収のこの歌の二首前には、「二月廿六日、事あり。友等、父、その事に関る」との詞書がある。女性の鋭い感性で捉えた、二・二六事件の姿が浮かび上がる。特異な体験を普遍的なテーマとして昇華させ、その後大きな変貌を遂げてゆく斎藤史の初期作品。歌壇史に燦然と輝き続ける金字塔。(原)


17 一ふさの葡萄手(た)握り冷たさに今朝の心の救はれてある   佐佐木治綱(明治42~昭和34)
 信綱の末子、幸綱の父。『秋を聴く』(昭和26年)の巻頭歌。歌集名と「葡萄」の季節が呼応している。葡萄の冷たさに触れてハッとさせられたという場面。「一ふさ」の数詞や「冷たさ」の触覚によって上句に臨場感が生まれている。思い悩んで沈んでいた心が、肉体的な感覚に救われるのがよくあらわされている。(佐佐木定)


18 きしきしと降りゐる雪に歩み来て花舗にて黒い手袋をぬぐ   遠山光栄(明治43~平成5)
 「きしきしと」降る雪。淡いぼたん雪ではない。擦れ合って音を立てるほど硬い氷の粒のような雪の中を作者は歩き、花舗に来ている。手袋の黒は冬の暗さや寒さの象徴であり、また作者の心情を暗示している。明るい花舗での解放感とひとときの華やぎ。現代歌人協会賞の第一回受賞歌集である『褐色の実』(昭和31年)より。同集には〈春光のなかにしきりに落葉する樫の木があり樫の木鮮し〉のように繊細で清澄な自然詠も多数。(河野)


19 わが家まで駅より坂の無きことに夜更け拘り坂を踏みたし   佐佐木由幾(大正3~平成23)
 治綱の妻、幸綱の母。治綱亡き後、長く「心の花」主宰を務めた。『半窓の淡月』(平成元年)より。帰宅路に坂がないことに気づき、無性に坂を踏みたくなっている。繰り返される日常の中で、いつの間にか欠落していた「坂」、いざそれに気づいたのは「夜更け」であり、坂を踏みに出るのも難しくなってしまった。人生の比喩として読むかは読み手の判断にゆだねられている。(佐佐木定)


20 鈴鹿川中洲の砂の逝く水に崩るるおとをひとり聴くなり   村田邦夫(大正3~平成19)
 神奈川県横浜生まれ。国学院大学卒。湘南高校で教員を務め、「心の花」にはその教え子がいく人も。昭和7年より佐佐木信綱に師事。学校が休みである日曜日には、信綱秘書として熱海の凌寒荘に詰め、資料収集等の旅にも随行。後年、鈴鹿市の佐佐木信綱記念館設立にも尽力した。掲出歌(『遥かなる鈴鹿』平成19年)は、そんな折の作だろうか。没年に刊行された歌集『遥かなる鈴鹿』は、湘南高校の父兄たちの発起によるという。(黒岩)


21 清純なるもの逝かしめしかなしみに霧白き闇のゆゆしさを往く   森本秀子(大正6~平成16)
 第一歌集『深部注射』(昭和52年)より。大阪と奈良の県境である奈良県御所市にうまれ、郷土の小児科医として勤務。心の花御所歌会の結成に関わり、大和歌人クラブ幹事、毎日大和歌壇選者を歴任するなど、奈良の歌壇の振興につとめた。医師としての歌に加え、晩年は葛城という郷土の自然を見つめる歌も多い。当該歌は小児科医として子どもの死に接し、人間を含めた自然への畏怖を詠む。(御手洗)


22 春の野に光みなぎり若草をまさぐれるわがまぶた明るき   田中長三(大正7~平成30)
 昭和25年宮中歌会始の預選歌。歌題は「若草」。田中は日中戦争に従軍中に負傷し、左腕と両眼の視力を失った。その後、看護師の江子と結婚。夫婦で戦中戦後の困難な時期を短歌を心の糧として乗り越え数多くの作品を発表した。掲出歌は視力を失った絶望の中で感じる微かな光に希望を見いだした瞬間を詠んでいる。江子の近作「新しき墓の傍へに夫と吾の歌も刻みぬ此処に生きしと」も胸に迫る。第一歌集『二葉ぐさ』(昭和31年)より。(田中拓)


23 半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山   鶴見和子(大正7~平成18)
 南方熊楠の研究などで名高い社会学者の鶴見和子は十五歳のときに佐佐木信綱に入門。米国留学を経て終戦後は研究に没頭するようになり、いわゆる「歌のわかれ」を経験する。それが平成7年に脳出血で倒れたとき、突然、短歌があふれ出てきたというのである。半世紀を経て再び作歌を始めた鶴見は活火山となり、以後は亡くなるまで作歌をやめなかった。掲出歌は作歌再開後初の歌集『回生』(平成13年)の冒頭に置かれた。(服部)


24 おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき   竹山広(大正9~平成22)
 『残響』(平成2年)巻頭歌。刊行時竹山は70歳。長崎在住の被爆者だった彼は、原爆を一生詠み続けた。「竹山さんの歌は、いつまでも同じことを詠んでいるという感じが全くしない」と伊藤一彦は語ったが、掲出歌も新しい。戦後45五年を経てなお、自らに植えつけられていた「戦意」のおそろしさを顧みる内省の深さ。一生をかけた歌への信頼。〈くづほるる心を起こし起こし詠むあるとき歌は意志と思ひき〉(『一脚の椅子』)(河野)


25 麦の芽はいまだ稚くて繊ければなんにも知らず緑なりけり   築地正子(大正9~平成18)
 『みどりなりけり』(平成9年)所収。同集は〈一本の木よりも繊く佇ちゐれば月は光の軽羅を賜ふ〉〈蝶の眼に見えてわが瞳に見えぬものこの世に在りて闇に入る蝶〉等、透徹した美学の結晶の如き作品が秀逸。一方で自然、特に身近な野の生きものや植物に向かう穏やかで莞爾とした眼差しも印象深い。「なんにも知らず」この世に生を受け、伸びゆこうとするものを見つめる面差しには、命に不可避なかなしみを知る者の憂いも兆す。(河野)


26 風を従へ坂東太郎に真向へば塩のごとくに降り来る雪か   石川一成(昭和4~昭和59)
 石川は昭和26年に「心の花」入会。交通事故禍で急逝するまでの三十余年間、編集委員として誌面作りに尽力した。また、国語教育に関する業績も多大である。掲出歌は故郷の千葉県佐原市を流れる利根川(別名 坂東太郎)を詠んだ一首。風が強く吹きすさぶ中で一人河原に立つ作者に降りかかる雪。その雪は塩のように己の傷に沁みこむとともに、故郷を捨てたという罪の意識を清めている。第一歌集『麦門冬』(昭和50年)より。(田中拓)


27 ハタハタの千の卵の眼が動く北の荒磯(ありそ)に雪ふぶくとき   宇都宮とよ(昭和5~)
 宇都宮は昭和53年に「心の花」に入会。佐佐木由幾に師事し、「心の花」誌の校正や各地歌会の運営に尽力した。掲出歌は平成23年の全国大会の題詠「北」への出詠歌。故郷を離れ、東京で長い年月を過ごしていた宇都宮が「北」という歌題から詠んだのは故郷の海とその地に吹雪く雪であり、海底の魚卵の眼であった。歌題から人の心へ、そして風土へと深く沈潜していく世界を表出した名歌である。 (田中拓)


28 濡れ土に沈む長靴すぽりすぽりと歩みくるなり近道をして   木島泉(昭和7~令和3)
 第二歌集『虫たちの宴』(平成26年)所収。「すぽりすぽり」のオノマトペが楽しい。近づいて来る長靴に焦点を当てながら、人の気配や取り巻く空間、空模様まで思わせ、一首の世界が豊かに広がる。自然に囲まれた郡上大和の暮らしの中で、作者は草花や虫や動物、そして自分の心の内を丁寧に、時にユーモラスに見つめる。〈人嫌い己に許し大きなる文旦ひとつ食べてしまいぬ〉〈名札のみ残りてすがれつくしたる薬草園の濡るる下道〉 (梅原)


29 名峰も聖峰も身の内にありこの世は生くるに値する世ぞ   久家基美(昭和7~平成30)
 「心の花」創刊120年記念号(平成30年7月)の自選三首より。哲学的な思索を土台として、身体を越えた自在な視座を持つ歌人として評価されてきた作者の、最晩年の一首。心の花に掲載され続けた歌のうち、当該歌が最後にあたる。自在の視座をもって再び自らを見る時、そこには名峰も、聖峰もあるのだという。久家が最期に行き着いたのは、身の内に広がる大きな世界であり、それを覆う生の肯定であった。絶唱である。(御手洗)


30 私を見ながらたつぷり歌ふ四十雀ありがたう奥さんによろしく   石川不二子(昭和8~令和2)
 『ゆきあひの空』(平成20年)より。〈農場実習明日よりあるべく春の夜を軍手軍足買ひにいでたり〉(『牧歌』)と詠んだ農工大の女子学生は共同開拓農場の農婦になり、日々の一こまは〈荒れあれて雪積む夜もをさな児をかき抱きわがけものの眠り〉(同)に映る。野の暮しの中で得た引用歌の境地。作者は若い頃に正岡子規を愛読した。佳作〈十薬の花うつものは木の雫時おきてまた花動きたり〉(自選五首)の源泉の一つだろう。(河野)


31 風出でて自然(じねん)樹木(じゅぼく)の申すには西国ひむかはまこちよかとこ   岡本貞子(昭和8~)
 おおらかで清々しい。読者の気持ちを晴れ晴れとさせてくれる一首だ。「心の花」平成30年9月号より。「ひむか」はむろん日向。「私の棲む日向は実によいところ」と樹木に語らせているが、これは作者の心を映した言葉であろう。ほんとにここは佳いですね、と頷きあっているのである。何の樹だろう。作者は『宮崎市民の森 万葉歌碑五十六基ガイドブック』を編纂しておられる。手掛りに拝読し、椨ではないかと想像している。 (河野)


32 指先より離れて土の上にのる種子に願ひをかけて覆土す   水本光(昭和8~)
 種蒔きをしている際の描写の細やかさと、「覆土」という農業独特の用語を無理なく使用しているところが見どころ。また、「願ひ」に作物が思い通りに育つとは限らないという農業の厳しさが透けて見える。水本光は40年近く教職を務めた後、家業である農業に従事。この歌を収録した歌集『残照の野に』(平成25年)は農業を題材とした歌が中心であり、離農する仲間への想いや農業政策への疑問を詠んだ歌も収録されている。 (青山)


33 暮れて行く冬天の色鋼(はがね)なすかく澄めとこそ 我が残る日々   八城スナホ(昭和8~)
 昭和50年、安藤寛、石川一成が健在であった湘南歌会から「心の花」に入会。その後、同歌会において佐佐木由幾、晋樹隆彦の指導を受け、平成13年から会の代表を務める。北鎌倉の名刹浄智寺の境内の真裏に住み、緑あふれる自然の中で、品性ゆたかな調べを確かな描写力で詠う。第一歌集『青葉門』(平成16年)所収のこの歌は、幾つもの時代を経験してきた作者が詠い上げた、渾身の一首。大岡信「折々のうた」にも紹介された。 (原)


34 真っ直ぐに走るため遠くを見よと言う若き教官の声に頷く   今泉進(昭和9~平成25)
 今泉は昭和47年に「心の花」入会。編集委員として四半世紀にわたって誌面作りに携わった。都内の女子校に長年勤務し、中高生の指導にあたった。掲出歌は定年退職後に通い始めた自動車教習所での体験を詠んだ一首。教習中に自分よりも年若い教官が発言した運転上のアドバイスを鮮やかに切り取っている。何気ない一言を見事な人生訓へと高め、詩的に昇華させた秀歌である。第二歌集『天の狩人』(平成15年)より。  (田中拓)


35 五〇〇キロメートル先の下り列車のパンに凧絡みし一報 二報目を待つ   西田郁人(昭和9~)
 歌集『漂鳥』(平成10年)所収。西田郁人は元国鉄職員で、東海道新幹線の運転士を務めた後運輸指令に異動となった。運輸指令は新幹線が時刻通り運行しているか、事故や障害が発生していないかを絶えず監視する、新幹線の運行上重要な職場である。指令室から離れた場所での障害の状況は直接には分からない。そうしている内にもダイヤはさらに乱れてゆく。二報目はまだか?職場を包む焦燥感が、大幅な破調によく表れている。 (青山)


36 草の芽の木の芽のにほふこれの世の湿り帯びたる女雛黒髪   塩川郁子(昭和10~)
 草が芽を出し木の葉が芽吹く春の季節、桃の節句を迎える頃に飾られた雛壇に置かれた女雛の黒髪が湿りを帯びている。そこにはながらくこの世の移ろいを見てきた人形の醸し出す色っぽさがある。この歌には作者の持つ愛らしさが自然と表れている。塩川さんのこれまでの膨大な歌に接することができて、幸せに思うとともに、一刻も早い自選歌集の編纂が望まれる。掲出歌は「心の花」創刊120年記念号の自選三首のうちの一首。 (服部)


37 本意などいづこにあらむかりそめのこの世あやかし鳥の鳴く駅   青木信(昭和11~)
 昭和57年に入会。「心の花」の編集に長年携わり、現在は丹波篠山に移り住む。その作品には東西の幅広い歴史、文学、思想がふんだんに取り入れられる。掲出歌は『汎神論』(平成5年)所収。帯文で佐佐木幸綱が「コラージュ、モザイクにそそぐ情熱」と評するように、本心など何処にあるだろうかいう呟きの反語を受けて、下句には「この世」「あやかし」「鳥の啼く駅」と言葉をばら撒くように配置し、現世を離れた不思議な世界を構築する。(清水)


38 冬霧に似ておぼろなる銀漢の北へ流るる轟音を聴く   高辻郷子(昭和11~平成28)
 北海道・網走の冬の夜空に広がる天の川。その豊かな水流は北へと続いてゆく。静まり返った夜、音は聞こえない。だが北の大地に足を踏ん張る高辻の耳には確かに、瀑布にも似た轟音が響いている。佐佐木幸綱らと『男魂歌』第一集に参加し、網走を舞台に農業と文学に生涯を捧げた高辻。豪快さとユーモアあふれる「農」の歌を作りつづけた男は、最後の歌集『銀漢を聴く』(平成21年)の一首で、まばゆい余光を放った。 (加古)


39 直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる   佐佐木幸綱(昭和13~)
 「心の花」編集長。男歌と言われる肉体感覚を伴った力強い作品。第二歌集『直立せよ一行の詩』(昭和47年)の歌集名ともなっている一首。飛鳥甘樫丘を訪れ、万葉歌人を想いつつ詠まれた歌。「直立せよ」と命令形で、大地が鳴動し始めるような下句が合わさり剛健な歌になっている。「一行の詩」が古代から現代まで連綿と続く縦の軸として時間的な広がりを担っている。 (佐佐木定)


40 艇を漕ぐ青年ら一斉に撓いつつ反りつつ上り行く秋の川   伊勢勇(昭和14~)
 掲出歌は「心の花」平成20年7月号『会員自選三首』より。ボートを漕ぐ青年達の肉体の動きの描写と、生命力溢れる春や夏を連想させる風景に、秋を持って来た意外性が見どころ。伊勢の歌は「青年」が題材となることが多く、合同歌集『男魂歌』でも学生運動に身を投じる青年等を詠んでいる。この歌は『男魂歌』の頃からは大分経過した時代の歌と見られ、「秋」が青年期から遠くなった作者自身の現在地を示しているように見える。 (青山)


41 ポケットの底に眠りて冬を越すピーナッツにはなるなわが恋   松井千也子(昭和15~)
 第一歌集『ひさかたの』(平成14年)所収。跋文で佐佐木幸綱は、「著者は人生を楽しんで生きる達人らしい。」と記す。料理上手でもてなし上手、会うといつでも元気になれる人、それが作者の様だ。お母様から受け継いだ伝説のカツサンドは、佐佐木家の人々にも代々、大好物の品として受け継がれているときく。ピーナッツと恋の組合せ、「なるな」の呼びかけもいい。達人の恋歌なら御利益もありそうだ。愛誦性があり、心に残る恋の歌。 (原)


42 いづれ汝も安堵の中の寂しさを知る日が来ると言ひにしよ父   白岩裕子(昭和17~)
 お身内やご先達への敬慕が深い作者。「心の花」平成31年3月号に掲載の引用歌には、ご尊父を偲ぶ心が満ちている。第一歌集『楷のしらべ』には〈生きて死にて父が教へてくれしものいま銀色のひかりを放つ〉も。同集のあとがきによれば、義祖母である白岩つや子のおかげで短歌との縁が結ばれた由。自らの心を律し、思慮深く詠む作者の自然詠は静謐で気高い。〈唐招提寺夕かげきざす藤棚の白の重みを風が動かす〉(同)  (河野)


43 おぼれゐる月光見に来つ海号(うみがう)とひそかに名づけゐる自転車に   伊藤一彦(昭和18~)
 宮崎県生まれ。早稲田大学在学中に、同級生の福島泰樹に誘われて「早稲田短歌会」へ。「心の花」入会は、昭和43年。以降、佐佐木幸綱と双璧を成す。故郷での高校社会科教員、スクールカウンセラーを経て、看護大学でも教鞭をとった。若山牧水の研究、称揚にも努め、現在は若山牧水記念文学館館長。伊藤には代表歌と呼ぶべき歌が多いのだが、掲出歌(『海号の歌』平成7年)では「月光」と娘のお下がりである「自転車」が伊藤らしい。 (黒岩)


44 空までを花野つづけり日の暮れの終りのひかり花の上(へ)をくる   足立晶子(昭和19~)
 『白い部分』(平成元年)所収。空までなだらかに続く花野に夕光が差してくる。夢と現実の境目のような情景は作者の原風景でもあろうか。足立の作品世界は、繊細な感覚、ユーモア、心地よい韻律に彩られつつ、感情に溺れない俯瞰への意志に貫かれている。〈打ち下ろす肉たたき棒どつたんと日暮の匂ひ濃ゆくなりたり〉『雪耳』(同13年)〈青田 白鷺 青田 白鷺 風の道ふかれふかれて青田 白鷺〉『ひょんの実』(同24年)  (梅原)


45 たましひはおもさがあるといふやうに着水したり瑠璃糸蜻蛉   斎藤佐知子(昭和19~)
 自然をこよなく愛する作者の作品には多くの鳥や動物が登場するが、掲出歌はルリイトトンボの産卵シーン。平仮名に開かれた上句の表現からは池の水面で行われている厳かでしっとりとした情景が想像される。スローモーション映像を見ている気がする。瑠璃糸蜻蛉の漢字表現も美しい。魂には重さがあるというようにと言われると、逆に、重さがないということを突き付けられているようで切ない。歌集『帰雲』(平成23年)より。 (服部)


46 トホホホホとはわれの口癖 情けなや惚れていしゆえ別れてしまえり   晋樹隆彦(昭和19〜)
 第一歌集『感傷賦』(昭和59年)より。等身大で歌を詠む、われの歌作者である。歌の主体は晋樹隆彦その人。「惚れていしゆえ別れてしま」う男は、情けないけれどやさしい男なのだ。魅力的な人物像が立ち上がり共感を呼ぶ一首と見る。第一歌集は青年の歌と中年の歌の取り混ざりが面白く、当該歌はおそらく青年期の歌。高らかに歌い上げるでもない、独白的な詠みぶりも晋樹の特徴といえる。 (御手洗)


47 豆ごはんふっくらと炊く人といて裏口に吹く麦秋の風   坪内稔典(昭和19~)
 第一歌集『豆ごはんまで』(平成12年)所収。麦秋は熟した麦を取り入れる頃、すなわち初夏の季語。〈水中の河馬が燃えます牡丹雪〉等の代表句を持つ俳人でもある作者の、日々の暮らしに柔かく溶け込んだ相聞を思わせる一首。あとがきに「とてもきれいな恋の歌を作りたいと思ってきた」とある。第二歌集『雲の寄る日』(令和元年)では〈草を引く老後を夢にしていたがむしろだんだん草になりたい〉等のユニークな老いの歌を詠む。 (梅原)


48 シャイアンの保護区の隣りの土地を買う砂塵吹きあげる風ともどもに   青木泰子(昭和20~)
 歌集『とこしえの道』にある娘との関係を綴った歌などにも惹かれるが、平成29年の心の花賞奥田亡羊賞受賞作品から選んだ。アメリカの荒野に吹き荒ぶ風に立ち向かう姿がかっこいい。米国暮らしの長い作者は「心の花」歴も長い。渡米、離婚、再婚した夫との死別、三度目の夫との生活。折々の歌を掲載した長年の「心の花」が本棚をまるごと占拠していると聞いた。毎夏「心の花」全国大会でお会いするのを楽しみにしている。  (服部)


49 描きたい花がこんなにあったのに花が私にあかんべをする   ネーダーコールン靖子(昭和20~平成9)
 年下の男性と恋に落ち、オランダに渡った靖子。二子を授かり、日本人学校の音楽教師として働く幸福な日々が続いたが、四十二歳で甲状腺がんを発病。いったん回復するが転移し、病状は悪化する。好きだった花の絵を描くこともままならない。遺歌集『オランダはみどり』(平成12年)の一首で、その深い悲しみを「あかんべ」に込めた。二カ月後、靖子は自宅で最愛の夫に見守られ最期を迎える。享年52。安楽死だった。  (加古)


50 気配せる/闇の外(と)の面(も)に目を凝らせば/ああ落蟬の羽(は)撃(ばた)きなりき   坂口弘(昭和21~)
 連合赤軍幹部として、同志十二人を殺した山岳ベース事件や、あさま山荘事件にかかわった坂口。平成5年に死刑が確定し、拘置所の独房で最期の執行を待つ日々が始まった。ある晩、窓の外から微かな音が聞こえた。闇に目を凝らすと、羽ばたきつつ落ちてゆく蟬だった。死に抗う姿に、坂口は心を寄せる。闇の中の静と動の対照。『常(とこ)しへの道』(平成19年)の一首は、落蟬と自らの境遇を重ね合わせているようにもみえる。  (加古)


51 いつ来てもライオンバスに乗りたがるライオンバスがそんなに好きか   小紋潤(昭和22~平成30)
 雁書館編集者。「心の花」編集委員。『蜜の大地』(平成28年)の一首。幼子へのやさしいまなざしに満ちている。「いつ来ても」で繰り返されている行為が表され、「ライオンバス」のリフレインがそれに呼応している。子の不在が歌われる連作の中にあり、この歌の根底にもいない幼子への思いがうかがえる。 (佐佐木定)


52 風落ちて鳶啼く声が呼び戻すデラシネのごとき吾の歳月   桐谷文子(昭和22~)
 甲府盆地の風がやんだとき鳶が鳴く声が聞こえてくる。そのとき、これまでの人生をふと思い出し、感傷的な気分にひたる。デラシネ(déraciné)は「根無し草」「故郷を喪失した人」を意味するフランス語。自然とフランス語の取り合わせの妙。作者のいつもの洒落た雰囲気がこの歌に醸し出されている。ワインを味わいたくなる。甲府なぎの会の代表を務める作者が「心の花」創刊一〇〇年記念号の自選三首に選んだ一首。 (服部)


53 会ひみてののちの心はいつしんに三十余年恋ひつつ憎む   田中薫(昭和22~)
 権中納言敦忠の〈逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり〉を下敷きにするが、十世紀の敦忠の歌の軽さとは異なり、この心には重い桎梏が課せられている。会った相手は夫。所帯を持ち、子ができても妻が夫を恋う気持ちに変わりがなかった。しかし、夫の心は別に向く。恋う気持ちが強いほど募る憎しみ。最期を看取ってもなお残る愛憎の、海溝のような深さに読む者はたじろぐ。『土星蝕』(令和元年)から。  (加古)


54 待ちをれば夕べ淡雪ふり籠めて駅は明かりの島となりたり   奥山かほる(昭和23~)
 奥山は見つめる人である。その視線の先には山河があり、街があり、人がいる。掲出歌は「駅」を見つめた一首。「駅」は列車が停車し、発車する空間である。人々が行き交い、やがて去ってゆく。人は「駅」に留まることはない。奥山はそんな「駅」を「明かりの島」と表現した。私はこの作品を叙情歌と読む。人が乗り降りし、消えてゆく「駅」。それはあたかも人の一生を象徴しているようである。「心の花」平成14年7月号より。 (田中拓)


55 薬禍にて尾部膨らませ歪む背の切り身となれば見分けのつかず   加賀谷実(昭和23~)
 歌集『海の揺籃』(平成23年)所収。加賀谷は秋田で魚介類の販売・加工を生業としている。大量に取り扱う魚の中には、化学物質に汚染された水などで尾が膨らみ、背骨の変形したものもあるという。そういった魚は捨てずに、切り身にすれば正常な魚と同様に取り扱われるという、衝撃的な暴露がこの歌の見どころである。また、この歌は、変形した魚を知らずに食する人間が抱く「海洋汚染への無関心さ」への警告とも取れる。 (青山)


56 十キロで三千円を切る米の出でし頃よりこの世乱れつ   馬場昭徳(昭和23~)
 『大き回廊』(平成15年)より。竹山広が「明朗闊達な働き者である」(『河口まで』「跋」)と評した作者は、長崎市で米屋を営んでいた。実直な生活者の視点で詠まれた社会詠は説得力がある。引用歌の「頃」は一九九〇年代後半と推測。作者は正直な労働に真っ当な評価がされない社会は歪んでいると言うのだ。全身で働く日々を映した一首を引く。〈精米を終へたるわれは新米の香りはつかにまとひゐるらん〉(『河口まで』) (河野)


57 時満ちて杏に小(ち)さき月生(な)りぬ長き日暮れを千々に熟れゆく    峰尾碧(昭和23~)
 幻想的な一首に果樹の時間が込められている。時が来て、杏の木は小さな実を宿す。実の一つ一つは、月の嬰(みどり)児(ご)。長くなった初夏の日暮れに、それぞれ土と太陽から養分を得て、熟れてゆく。子供のころ、蚊帳の中で独文学者の祖父が語るグリム童話を聴き、長じて文学と音楽を友とする峰尾。現実のようで現実でないような世界は、歌詞のない「ヴォカリーズ」に似て想像を掻き立てる。『森林画廊』(平成30年)から。   (加古)


58 百人の生まれ出づれば百通り生き方のあり逝き方がある     長嶺元久(昭和26〜)
 第二歌集『百通り』(平成29年)より。宮崎で内科の開業医として勤務する作者は、患者との関わりの中で、人生、生死、家族、身体を詠む。長い医師生活の中で多くの生死と向き合ってきた作者であればこその人生観が詠まれる。人生とはこうである、とか、生きるとはなどとは歌わない。ただ、人間を見つめ、歌にする。百人には百通りの最期の迎え方があるとは、見てきた者にしか詠めない歌であろう。  (御手洗)


59 落ち武者のわれかもしれず遠望の城が小さな鳥影となる   中西由起子(昭和27~)
 戦いに敗れるも生き延び、再起を図ろうとする武士の姿にその身を喩える。辿り着きたい城は未だに遠い。遥かに小さく見える城は鳥の影のように思える。第一歌集『沙羅の視点』、第二歌集『迦楼羅の嘴』、毎月の「心の花」を読み継いできた読者は、この歌に作者の道程を重ねて読む。東日本大震災など未曽有の災害を経験した平成期を生きた私たちは、生き延び、どこかに辿り着けるだろうか。第三歌集『夏燕』(令和元年)より。(服部)


60 ほしいまま大きくなりし冬瓜の身をひきしめてへた一つあり   松橋雅実(昭和27~)
 「心の花」平成31年1月号掲載。何の変哲もなさそうな冬瓜が、ユーモラスな個性を持ってそこにある。伸びやかな上句から一転、へた(・・)に焦点を絞って存在を浮き彫りにした。空や水、鳥、虫、草花、身巡りの自然に宿るささやかな不思議を松橋は見つめ続ける。〈くもの張る糸は見えねどえごのきの枝より枝へひかりは走る〉(同3-0年十二月)〈降りやまぬ雨に二つの水たまりどちらからともなく繋がりぬ〉(令和元年9月)  (梅原)


61 受けついでゆく記憶のその先は読めない歴史年表のうらおもて   佐佐木朋子(昭和28~)
 幸綱の妻。『パロール』(平成18年)より。「記憶」や「歴史」は受けついでゆけるが、未来はどうなるかはわからない。テロに脅かされる不安定な世界情勢、現代の不透明さが「読めない」ものとして描かれている。「歴史」は「うら」も「おもて」もあり、決して一元的ではないものとして、「年表」が用いられている。   (佐佐木定)


62 天丼のエビは死にたるその後も値段付けられ評価されいる   田中徹尾(昭和29~)
 歌集『人定』(平成15年)所収。田中徹尾は労働基準監督署の監督官や署長を務めた。職業柄、労働災害や過労死で亡くなった労働者に関する問題処理に多く直面してきた。この歌は昼食時を詠んだものと思われるが、死んでも今まさに天丼の具として「評価」されるエビの描写に、労働災害や過労死で命を落としても、評価されることもなく社会から忘れ去られてゆく労働者への同情と、非情な企業と無関心な社会への怒りが込められている。(青山)


63 シャンプーがいくつもならんでいるように平和がいくつもあればよいのに  大野道夫(昭和31~)
 佐佐木信綱の曽孫。昭和58年に「心の花」入会。「心の花」全国大会や記念大会などの開催に尽力し、多くの若手会員を育成した。社会学者としても活躍し、短歌を社会学の視点で考察した『短歌の社会学』がある。掲出歌は「戦争」「平和」という二元論ではなく、日々感じる何気ない幸せを口語体で詠んだ一首。「平和」はひとつではないというゆるぎない信念が込められている。第一歌集『秋階段』(平成7年)より。 (田中拓)


64 暗きアトリエにて生み出されし人体が水平線の窓辺に置かる   経塚朋子(昭和31~)
 第一歌集『カミツレを摘め』(平成28年)所収のこの歌には、「アルベルト・ジャコメッティ展」と詞書がある。ジャコメッティの塑像が窓辺に置かれている様子を過不足のない言葉で詠う。アトリエは暗いが、水平線の向こうには眩しいひかりが広がっているに違いない。明と暗、光と影の美しさに息をのむ。美術に造詣が深い作者のすぐれた画面構成力が生み出した一首。平成29年度日本歌人クラブ東京ブロック優良歌集賞を受賞。 (原)


65 良いことが二つ良くないこと一つ名のみの春の夜を眠らな    細溝洋子(昭和31~)
 「心の花」平成29年5月号。「早春賦」のフレーズを借りて春の訪れを軽やかに詠う。リズミカルで愛唱性があり、心豊かな気持ちになる。細溝の目は自分の内と外の間に生じる薄い違和の膜を通して、心の動きや風景を写し取っていく。写し取られた作品世界は澄んで明るい。〈春の水光りつつ落つ自らが今滝である昂りのまま〉(同30年6月)〈最高音吹き鳴らすときこの世からはみ出てしまう金管楽器 〉『花片』(同28年)  (梅原)


66 マトリョーシカ分かちて終(つひ)に現はるる虚(うろ)をもたない小(ち)さき人形   松岡秀明(昭和31~)
 松岡は精神科医にして宗教と医療を専門とした文化人類学者。サッカーのレフリーの資格を持ち、ジャズや料理にも造詣が深く、短歌も評論も自在に操る。第一歌集『病室のマトリョーシカ』(平成28年)所収のこの歌の一連で、第10回心の花賞を入会三年という異例の早さで受賞。マトリョーシカという特殊な構造の人形を精神科医の視点から巧みに詠み印象深い。俵万智曰く連作上手な松岡。第36回現代短歌評論賞も受賞している。 (原)


67 タッチアップなど分かっているのか神宮で原を観ている君のまばたき   黒岩剛仁(昭和34~)
 黒岩は昭和56年に「心の花」に入会。昭和・平成・令和の約40年にわたって誌面作りに携わっている。黒岩が継続して詠み続けるテーマの一つは「野球」。掲出歌は野球観戦中に「君」が夢中になっているのは試合展開よりもスター選手の一挙一動であったという場面を詠んだ一首。「神宮球場」「原」という言葉が一つの時代を象徴し、相聞歌を超えた時代詠としての普遍性を生み出している。第一歌集『天機』(平成14年)より。 (田中拓)


68 わが仕事この酔ひし人を安全に送り届けて忘れられること    高山邦男(昭和34~)
 タクシー運転手である作者の矜持。タクシーは様々な客を乗せて走る。時間帯により場所により様々な人に出会う。夜分には酔っ払いの客を乗せることもある。どんな客を乗せても安全に目的地まで送り届けることがタクシー運転手の仕事である。客にはどんな運転手であったかなどは忘れてもらえばいい。寂しさの中に温かさを感じる。「一期一会」という言葉が浮かんだ。歌集『インソムニア』(平成28年)より。   (服部)


69 文明がひとつ滅びる物語しつつおまえの翅脱がせゆく      谷岡亜紀(昭和36~)
 高知県生まれ。早稲田大学在学中の昭和55年に「心の花」入会。第一歌集『臨界』(平成5年刊)の二か月前に出版した評論集『〈劇〉的短歌論』において、既に谷岡の短歌観は明らかにされていた。以降、論作ともに目覚ましい活躍を続けており、佐佐木幸綱、伊藤一彦を継ぐのは、彼だろうと思われる。『臨界』中の掲出歌では、上句の大きな世界観から下句のエロチシズムへの展開が何とも魅力的である。    (黒岩)


70 背後とは私を包む外界の優しい方の半分なのだ     武藤義哉(昭和34~)
 「男子家を出ずれば七人の敵あり」とか「雨垂れは三途の川」と言うように、社会に出ると前には敵や禍が待ち受ける。背後だって「後門の狼」がいる。だが武藤は「背後」は「優しい方の半分」だと言う。優しい家族や居心地の良い家に護られて、背後からは絶対に斬られない。その安心感と感謝の気持ちを愛誦性のあるフレーズにまとめた。「武藤マジック」極め付きの一首は、平成19年度NHK全国短歌大会の大賞受賞作。    (加古)


71 グーグルに検索すれどあらわれぬちちははよ我が歌集に眠れ 藤島秀憲(昭和35~)
 歌集『ミステリー』(令和元年)所収。藤島秀憲の代表的な題材は「親の介護」であり、歌集『二丁目通信』、『すずめ』は両親の介護を題材とした歌がメインとなっている。母親、 父親と看取った後、藤島は長年住んだ街を離れ、漸く自分自身の為の生活を始めることになる。昔住んだ家をグーグルで調べても、もう両親の名や姿はない。だが、代わりに歌集の中だけには確かに刻んだという描写に、作者の過去との訣別が強く感じ取られる。 (青山)


72 肉感を拾はぬあをの襞重ねまだおぼろげなる水彩の鰐     岸並千珠子(昭和36~)
 平成25年度「心の花賞」受賞作「水のくれなゐ」より。「水のくれなゐ」はイラストレータ―を生業とする作者の制作現場に取材した連作。掲出歌はデザイン画の鰐が、絵の具で青を重ね塗りされていく過程が詠まれ、徐々にその姿を与えられる様子を読者にリアルに想像させる。色に「襞」という言葉を使い、鰐の姿態を「肉感」と表現するところに作者の独特の感性が表れる。たっぷりとした柔らかい肌触りのエロティシズムが魅力的だ。 (清水)


73 とんがったマスク同士で行き合えば未来のヒトのような会釈す  鈴木陽美(昭和36~)
 『スピーチ・バルーン』(平成30年)所収。都会人の日常生活や現代の新しい家族像をシンプルな言葉で歌う。言葉のセンスが抜群で、歌集には機知とユーモアの効いた歌が並ぶ。現代的な新しい素材や言葉に取材するのが作者の特徴だが、掲出歌もその一つ。近頃よく見かける立体構造のマスクを取り上げ、マスクをして向き合って挨拶する二人を「未来のヒト」に喩えているのが言い得て妙。背後にメタリックな未来都市が見えてくるようだ。 (清水)


74 たそがれの電車の響きは繰り返す「なに言うてんねん、なに言うてんねん」   武富純一(昭和36〜)
 第一歌集『鯨の祖先』(平成26年)より。日常の中にあるちょっとしたモノや風景を、発見の妙と魅力的なことばをもって歌に仕立て上げる作者である。気づいたら覚えているというように愛誦性を持つ歌も多い。当該歌も、武富の観察眼と構成力が光る。たそがれというと何かドラマを描きたくなるが、武富は関西弁をもって読者の期待を越えていく。ネイティブスピーカーにしかなし得ない関西弁のユーモアも魅力の一つだ。  (御手洗)


75 近づいていけばいくほど雲離れ遠い水平線だ、読者は      加古陽(昭和37~)
 新聞記者としての思いが表出している一首。近づきたいと思えば思うほど読者は遠のいていく。下句の句跨り・語割れはあたかも水平線にくっきりと線が引かれているようで、読者との断絶とそれを乗り越えようとする意思と技巧がマッチする。作者は、福島第一原発事故の取材班の総括デスクを務め、菊池寛賞を受賞。名歌の背景を取材した『一首のものがたり』は日本歌人クラブ評論賞を受賞。「心の花」創刊120年記念号より。  (服部)


76 揺れながら前へ進まず子育てはおまえがくれた木馬の時間     俵万智(昭和37~)
 大阪府生まれ。早稲田大学在学中に佐佐木幸綱の講義を受けて、昭和58年「心の花」入会。62年に刊行した『サラダ記念日』がミリオンセラーとなった。俵の作品世界を俯瞰すると、『サラダ記念日』に代表される時代、そこからの脱皮を図った『チョコレート革命』に代表される時代、そして息子という存在を得て以降、と三つに分けられるのではないか。掲出歌は、その三つ目の時代を代表する『プーさんの鼻』(平成17年)より。 (黒岩)


77 はつなつのバンジージヤンプ鷹の羽(は)の家紋の血筋をもつてわが飛ぶ  花美月(昭和37~)
 一本の命綱を頼りに、高所から谷などへダイビングするバンジージャンプ。想像するだに怖ろしいアトラクションを体験して詠んだ歌の初出は、「心の花」平成25年8月号。おそらくバンジー体験を活字にした初めての短歌だったろう。高所に立てば誰だってたじろぐ。そこで「私は『鷹の羽の家紋』の血筋よ。羽ばたきなさい!」と自らを鼓舞するのだが、悲壮感はない。自己観察に徹したユーモラスな歌いぶりが、楽しい。 (加古)


78 部屋の隅に離れて眠る猫の耳ときどき我を確かめている  森屋めぐみ(昭和37〜)
 第一歌集『ねこの耳』(平成26年)より。対象へのシャープな視線で世界を切りとり、再構成して読者にくっきりとイメージを立ち上がらせる作者の猫の歌。第一歌集では猫の歌に加え、四季の詠も秀歌が多い。猫との生活の場面がたちまち現れ、猫との信頼関係もうかがえる一首である。我を確かめているのが離れて眠るねこの耳というのが面白い。猫は全身で家族である我を感じているのである。とてもかわいい。  (御手洗)


79 三浦終・久里終・浦終 終電が岬のさきへ闇を運べり      倉石理恵(昭和38~)
 第一歌集『銀の魚』(平成27年)所収。終電間近の都会の駅の掲示板だろうか。それぞれの終着駅へと向かう最後の電車が過ぎると、翌朝まで灯りは消える。その情景を絵本のように、電車が静かに闇を運んでいくと捉えた。三浦半島の地名と「岬」が一首の中に息づき、その先の暗い海の広がりを感じさせる。歌集では地元・三浦半島を舞台に自らと家族の姿が細やかに描かれる。米軍基地を擁する地にあって社会への眼差しも鋭い。  (梅原)


80 蝶も蜘蛛も眠る夜半にしんしんと百合は香れり自らのため    河野千絵(昭和39~)
 「心の花」平成30年10月号掲載。年間選者賞(佐佐木朋子)受賞。長野県に住み信州の自然を歌ってきた作者だが、英文学の研究者でもある。九州出身で、長崎歌会で竹山広の薫陶を受け、築地正子の影響を強く受ける。対象への観察が細かく丁寧な表現が持ち味。掲出歌は虫も訪れず人から見られることもない深夜に、毅然と咲き香る百合を愛情込めて歌った。結句の倒置が印象的。「自らのため」という百合の潔い在り方にはっとする。 (清水)


81 少年の命の位置を高くして夏の振子となれるブランコ     大谷ゆかり(昭和40~)
 第17回心の花賞受賞作「夏のファイル」(平成29年)中の一首。選後評では、「なんでもない平凡な事物が、歌の力、言葉の力で思わぬ力学で躍動する不思議。」(佐佐木幸綱)、「誰もが目にしたり経験したりしている光景を、一気に詩に高める手腕は、ほんとうに素晴らしい。」(俵万智)、と高く評価された。この歌も、日常の何気ない場面を巧みに詩的情景へと変容させている。作者独自の世界を切り開き、愛誦性にもすぐれた一首。   (原)


82 封印を解かれた夏の朝空にたちまち高まる青の濃度は     清水あかね(昭和41~)
 第一歌集『白線のカモメ』(令和2年)所収。眠りから覚めた夏空は一気に青味を増す。封印を解かれて勢いよく溢れ出すのは、生きる喜びでもあるようだ。〈もういない弟おもえば飴色の玉蜀黍(とうもろこし)茶のほのかな甘み〉〈ちらちらと常葉の揺れて生垣を過(よぎ)る人影 向こうはどの世〉。死者と生者の溶け合う世界にあって自然や天体を見つめながら、自らが生きる「今」を実感する。作者の歌に特徴的な透明感はそこから生まれるのではないか。  (梅原)


83 君の眼に見られいるとき私(わたくし)はこまかき水の粒子に還る  安藤美保(昭和42~平成3)
 『水の粒子』(平成4年)所収。中世和歌の研究者を目指し、大学院修士課程在学中に研修旅行の比良山で事故に遭う。24歳の若さだった。一周忌に出版された歌集は「古典から学んだ確かな骨格。現代女性の柔らかな感覚。」(俵万智)と高く評価され話題となる。ロングセラーとして今なお若い世代に読み継がれている。掲出歌は恋人に見つめられる戸惑い、恥じらい、幸福感を「水の粒子に還る」と表現して、硬質な透明感が魅力の相聞歌。  (清水)


84  宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている     奥田亡羊(昭和42~)
 「心の花」編集委員。「麦と砲弾」で第48回短歌研究新人賞受賞。『亡羊』(平成19年)の巻頭歌。誰から発せられて誰へと届けられるのかわからない「叫び」は、自己の内面の発露としてただ自らのために叫ばれたものだろう。それを「宛先も差出人も」と手紙という伝達手段に例えている。この「叫び」は短歌そのものの象徴でもあるだろう。 (佐佐木定)


85 顔のある壺のある窓のある夜のあるいはシャトー・マルゴーの惨死    服部崇(昭和42〜)
 第一歌集『ドードー鳥の骨』(平成29年)より。服部は言葉に歌を作らせる。ときおり作者本人も歌意が分からないと言うのは、言葉が言葉を呼び、そうして歌ができあがるからだと思う。当該歌は言葉が言葉を呼んでいることがよくよく現れた一首。歌に仕立てあげる服部の語彙と世界観が、そのような歌を魅力的にしているのだろう。この歌はこの言葉をもって表現される必然性があったのだ、とさえ思えてくる。  (御手洗)


86 淋しき日にだけ会ふのかと責められき淋しき日など我にはあらず   梅原ひろみ(昭和43~)
 『開けば入る』(平成31年)所収。歌集には、ベトナムに駐在し工具を売る事務所を切り盛りする作者の歌が並ぶ。グローバル時代に活躍する働く女性の歌だ。相聞歌も多いが、男性に伍して働く女性は恋にもタフ。一昔前なら「淋しい日にだけ会うのか」と責められるのは男性の方だろう。女性の社会進出は恋愛のメンタリティを変化させた。いきおい恋歌も変わってくるだろう。しかし結句の言い切りの潔さは女性だからこその含みを持つ。  (清水)


87 形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり   大口玲子(昭和44~)
 日本語学校で外国人の生徒たちに日本語を教えている。形容詞として一語を選ぶなら「さびしい」だろう。生徒に二度言わせるところが何事にも熱心な作者らしい。日本語教師としての中国赴任を終え、日本で教え始めた頃の一首。異文化との関わりを経て、対人関係を深く考えている。原発問題やキリスト教徒としての信仰について思索するようになる作者の原点に近いところにある歌だと思う。第一歌集『海量』(平成11年)より。  (服部)


88 みちのくの体ぶつとく貫いてあをき脈打つ阿武隈川は     本田一弘(昭和44~)
 福島県会津若松市で生まれ育った本田は故郷の「会津」を詠む歌人であった。しかし、本田の視線は徐々に「会津」から「みちのく」へと広がり、歌人としての世界観を深めていく。掲出歌は平成22年全国大会の東西対抗歌合の際の一首。歌合で同作品は対戦相手の歌に敗れたが、同作品を巻頭歌に据えた歌集は高い評価を得て各賞を受賞した。本田の歌人としての飛翔を象徴する記念碑的一首である。第三歌集『磐梯』(平成26年)より。  (田中拓)


89 脱ぎかけの右手袋を嵌めなほす満ちたる月に見入られさうで  小川真理子(昭和45~)
 手袋に守られた美しい右手は、作者の繊細な心の象徴である。手の白さと月光の白い輝きが呼応し、冷涼な空気感を生み出している。月に見入られることをおそれつつ、この時この場所で月と作者は一対一の孤独な存在として引き合う。引用歌のある第一歌集『母音梯形』(平成14年)の前半はフランス留学時の作品が多い。〈「ニッポンノジョセイガスキ」と言ふジャンに好かれぬことの清々しさよ〉と詠んでいる作者の気高さと誇り。  (河野)


90 寺、教会、モスクのかたちは変われども捧げる炎の色は変わらず   田中章義(昭和45〜)
 歌集『天地のたから』(平成26年)より。ルポルタージュなど、世界各地で執筆活動をしてきた作者は、世界の平和はいかにして可能かということを歌で問う。異なる信仰を持つ者達も、祈る人々である点においては同じではないかと歌うのである。青春の中をズッコケながら、しかしまっすぐ駆け抜けた歌人は、世界の平和を問う歌人となった。田中章義の表現者としての真っ直ぐさは一貫している。  (御手洗)


91 幼子の夢に立つため夜ごとに人形たちのゆく駅がある       野原亜莉子
 「心の花」(平成27年2月号)掲載。平成26年9月開催の東京歌会題詠「駅」にて一位を獲得し、同年の年間グランプリを受賞。人形作家であり人形をこよなく愛する作者が、「人形」という一つの主題を詠い続ける在り方が評価された。一首においては、「人形たち」と複数にしたことでスケールが大きくなったと評された。平成27年、「人形たちの島」で第15回心の花賞受賞。今なお人形を詠い続け、新たな面を切り開いている。 (原)


92 兄と二人「今後」のことを話し合う兄弟(ふたり)の生を前提として   田中拓也(昭和46~)
 歌集『東京』(令和元年)所収。田中拓也が短歌を始めたのは父親の影響だったという。それ程に尊敬していた父親も年老い、養護施設で余生を過ごす身となった。どうなるか分からない「今後」を考えると、感傷に浸る余裕はない。まして、この「今後」は子供である自分や兄の生活にも重くのしかかる問題であり、兄弟どちらが欠ければ、もう片方の生活が崩壊する恐れもある。冷静な詠みだが、作者の不安に満ちた心境が垣間見られる。 (青山)


93 カーナビは知人の宅を不意に告ぐ がれきのみなる道走るとき  山口明子(昭和46~)
 山口は平成2年に「心の花」に入会。大学卒業後は岩手県で教職に就き、以後同地での生活を続けている。掲出歌は東日本大震災の際に津波被害を受けた街を車で訪れた時の衝撃を詠んだ一首。地図を表示するデジタルの画面には被災前の街が表示されているが、街からは住宅が消えている現実。仮想空間と現実の「ずれ」を詠んだ作品は震災詠を超えて、現代社会を鋭く照射している。第一歌集『さくらあやふく』(平成24年)より。 (田中拓)


94 蜜吸ひては花のうへにて踏み替ふる蝶の脚ほそしわがまなかひに   横山未来子(昭和47~)
 第三歌集『花の線画』(平成19年)所収。静謐で透きとおるような美しい時間が流れる。身近な自然のほんのわずかな一瞬を丁寧にクローズアップすることで、幻想的で不思議な感触を生み出す。静かだけれど強くて、どこかはかなげな感覚が心にのこる。蝶というモチーフは、横山未来子の清潔で繊細なイメージとも重なる。「わがまなかひに」の結句もいい。声なき声が余韻となってひびき、漂う。同歌集は第四回葛原妙子賞を受賞した。 (原)


95  福島の誰も帰れぬ地に降りる雪は静かに嵩を増やしぬ     駒田晶子(昭和49~)
 歌集『光のひび』(平成27年)所収。東日本大震災、そして福島第一原発の事故は、福島の一地域から人間の存在を突如消し去った。震災時のままの街や家には、昔と同じように四季が訪れる。冬に雪が降ることも震災前と変わらない。だが積もった雪は、雪かき等で減ることはなく、静かに嵩を増し、街は徐々に廃墟に近付く。現実的な描写の歌だが、この「嵩を増やす雪」とは、増幅するばかりの冷酷な現実の比喩ではないだろうか。   (青山)


96 われを発ちこの世になじみゆく吾子に汽笛のやうなさびしさがある   佐藤モニカ(昭和49~)
 第一歌集『夏の領域』(平成29年)所収。結婚、出産、子育てを経て、やさしくやわらかな歌に細やかな感覚が伴う。「汽笛のやうなさびしさ」との表現は、一読忘れがたい。繊細な比喩は、深く静かな余韻を心にもたらす。佐藤モニカは、詩、小説、短歌という文学形式を表現手段とし、いずれにおいても高く評価され、数々の賞を受賞している。本歌集でも第24回日本歌人クラブ新人賞と第62回現代歌人協会賞をダブル受賞した。  (原)


97 夏(なつ)麻(そ)引(び)くシャツを羽織れば大いなる海を渡りし帆の心地せり   永田智子(昭和51~)
 「心の花」創刊110年記念号から。この歌を本田一弘は「日常においてふと感じた明るい気分を大胆な表現で歌っていてひじょうに爽快だ」(「心の花」平成20年11月号)と評しているが、同感である。「大いなる海を渡りし帆の心地」とは達成感か、それとも安堵だろうか。作者の第7回心の花賞受賞作の中には〈一枚の鱗のようなコンタクトレンズを嵌めて外へ泳ぎ出づ〉がある。外の世界を海と感じる、伸びやかな感性。   (河野)


98 パンチョなる元山賊が出(い)でてきてよく殺しよく結婚をする  佐佐木頼綱(昭和54~)
 幸綱の長男。第28回歌壇賞受賞。歌壇賞受賞作「風に膨らむ地図」(平成29年)中の一首。旅先でパンチョという山賊の話を聞いている。「パンチョ」の独特な名詞を「よく殺しよく結婚をする」の強烈な下句が支えている。昔話のようであるが、現代でも異国の山賊ならこれぐらい放埓なのかもしれないと思わせる。  (佐佐木定)


99 父よりも太く大きく育ちゆけ、やんばるの男の子ぞ、健太郎    屋良健一郎(昭和58~)
 親が子にできることは、育てることと祈ることだけなのかもしれない。おっぱいを飲んでしゃっくりをしながら眠りに就くわが子を見ながら、父は祈りを込めてエールを送る。「強い心と体を持つ、立派な人になれよ。お前は山原(やんばる)(沖縄北部)の大自然に根のある男の子だ。なあ健太郎」。「心の花」平成28年90月号の一首からは、日本人であるとともに琉球王朝に連なる自らの誇りと、子に懸ける熱い思いが伝わる。 (加古)


100 暗き坂登れば夕陽に追いついて缶珈琲が光りはじめる    佐佐木定綱(昭和61~)
 夕暮れ時、坂の下では闇が徐々に勢力を拡げつつある。その闇から逃れるかのように、主人公は缶珈琲を手に坂を駆け上る。上り切ると、地平線に浮かぶ太陽からオレンジの光が届き、珈琲の缶が輝きはじめる。「陰影を知って、はじめて世界が美しくなった」。佐佐木は第一歌集『月を食う』(令和元年)のあとがきでこう述べる。むきだしの声が目立つ歌集を締めくくる一首は、その言葉通り陰影を描き、美しい世界を象る。 (加古)



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