「心の花」百人一首


「心の花」創刊100年記念号に掲載


1 病む人の心をおのが心にてその苦しびをいたはりやらむ   三浦守治(安政4〜大正5)
『病理学解剖』という大著があり、東大医学部教授だった人。森鴎外と仲がよかったという。「心の花」創刊時からの会員で、歌集に『移岳集』がある。専門歌人ではないが、「ますらをぶり」の歌人として知られた。


2 秋の風大野を吹きてますらをの涙のあとに芥子の花さく   尾崎行雄(安政5〜昭和29)
「憲政の神様」「議会政治の父」として長寿をまっとうした政治家である。信綱が短歌を添削していたので、客分扱いで時折「心の花」に作品を寄稿している。提出歌は大正6年1月号「心の花」の作で、「オータールーにて」との詞書がある。ナポレオンがプロイセン軍に負けたベルギーのワーテルローでの作で、発表 当時、評判になったらしい。


3 たかぶれる人の心とそゝりたちし石の高どの微塵となりぬ   坪内逍遙(安政6〜昭和10)
明治37年7月号「心の花」に「浦島を作せし顛末」を寄稿して以来、幾度も「心の花」に登場している。提出作は大正12年11月号の関東大震災にかかわる作だが、短歌はこのときの十二首だけのようである。


4 霜やけのちひさき手して蜜柑むくわが子しのばゆ風にさむきに   落合直文(文久元〜明治36)
東大古典科時代の直文は弘綱に添削を受けたという。『明治大正昭和の人々』には、中国旅行中に直文死去の報に接した思い出が書かれている。提出作は明治33年2月「心の花」のもので、千葉県北条海岸でひとり糖尿病療養中の作。


5 楡の芽のはる遠からじ赭塗(そほぬり)の喇嘛のほこらにぬるき雨ふる   源高湛(森外)(文久2〜大正11)
『森外全集』に信綱宛書簡が30通あるのをみても分かるように、外と信綱の交友は深かった。短歌、小説、詩、評論を含めて「心の花」への寄稿は多い。提出歌は明治38年5月号の「戦前より」と題された五首中の作で、「喇嘛」はチベットのラマ教のこと。


6 吾妹子と逗子の浦辺に植ゑし公孫樹老いにけらしな我も老いたり   徳冨蘇峰(文久3〜昭和32)
昭和27年2月号「心の花」の「公孫樹十二詠」中の作。この年もう90歳を越えている。佐佐木雪子の姻戚で、早くから知ってはいたが、蘇峰が伊豆山に住んでいたので、熱海時代に交友を深めたようだ。


7 十四日オ昼スギヨリ歌ヲヨミニ上根岸迄オイデ下サレ   正岡常規(正岡子規)(慶応3〜明治35)
有名なこの歌をふくむ「はがきノ歌」二十六首は、明治33年3月号「心の花」に掲載されたものである。常規在世中、根岸短歌会は機関誌を持っていなかったので、歌、評論等をおりおり「心の花」に寄稿している。弘綱十年祭に手向けた子規の短冊が残っている。


8 蔵前に燭し一子相伝の薬練る夜を初時雨する   沢弌(明 治1〜昭和14)
三浦守治と同じくこの人も医者。石榑千亦とともに、歌会「あけぼの会」の長老格でメンバーの指導をした。


9 大かたはおぼろになりて吾が眼には白き杯一つ残れる   石榑千亦 (明治2〜昭和17)
「心の花」創刊時から没年まで四十余年、この人が実質的に雑誌「心の花」の経営を支えた功労者。海の歌、酒の歌で知られる。歌集に『潮鳴』『海』『』がある。提出歌は近代屈指の酒の名歌。


10 国々の神のよるてふこの浜に駒の泡かと立つや白波   巌谷小波(明治3〜昭和8)
父親同士が逢って早くからの知人だったようだ。逢ったのは広津柳浪宅で、尾崎紅葉ら「硯友社」のメンバーといっしょだったという。信綱が童謡、唱歌等を作詞をするきっかけは、巖谷小波が主筆をつとめた「少年世界」に寄稿を依頼されてのことのようだ。

11 米櫃も下駄も卒塔婆も流れ来て又流れゆき大水の川   小花清泉(明治4〜昭和17)
東大哲学科、英文科に学び、小泉八雲、坪内逍遙に傾倒、英詩、神話伝説を研究した。また『英訳万葉集』の訳出・点検に力を尽くした。「あけぼの会」等多くの歌会に出席。熱心に後進を指導した。提出作は明治44年1月号「心の花」より。43年8月8日に大豪雨。東京で18万5000戸が浸水している。


12 夕闇に風にもまるる樫の葉か折に震ふ魂としも見む   土井晩翠(明治4〜昭和27)
晩翠作詞『荒城の月』が入っている「中学唱歌」は明治34年刊、この作は明治37年4月号「心の花」。初期「心の花」には吉野臥城、佐藤秀信等、仙台近辺に若い熱心な歌人たちが多かった関係で、信綱は幾度か東北に行っている。その折りに晩翠を訪ねたのが最初。


13 ついばみて孔雀は殿にのぼりけりしろきぼたんの尺ばかりなる   与謝野鉄幹(明治6〜昭和10)
明治26年に直文宅で信綱と逢っているというから古いつきあいである。鉄幹の最初の詩歌集『東西南北』に序文を寄せているのはご存知の通り。「明星」創刊は「心の花」の2年後。提出歌は明治32年4月号「心の花」。


14 幼きは幼きどちの物語葡萄のかげに月かたぶきぬ   佐佐木信綱(明治5〜昭和38)
提出歌は明治35年8月号「心の花」の作で、『思草』の代表歌の一つ。「清新で、仏蘭西印象派の絵に対するやうな心境をおぼえる」と、のちに斎藤茂吉が賛辞を呈している(昭和23・8『余情』)。「どち」は「同士」の意味。


15 川に沿ひ山へちらばる町の灯をぬらし滲ましふる小夜しぐれ   川合玉堂(明治6〜昭和32)
文化勲章も受けた著名な日本画家だが、『多摩の草屋』という歌集もあるほど作歌数は多い。提出歌は「心の花」昭和21年1月号。


16 眼さむれば松の下草を刈る鎌の音さやに聞ゆ日和なるらし   下村海南(明治8〜昭和38)
終戦時の国務大臣兼情報局総裁で、8月15日の歴史的玉音放送実現に大きな役割をたはしたことで知られるが、朝日新聞副社長として個人経営から企業への転換時期に重要な舵取りをした人物でもあった。大正4年に「心の花」入会。歌集が五冊もある。提出歌は天草島での作。


17 書の中にはさみし菫にほひ失せぬなさけかれにしこひ人に似て   大塚楠緒子(明治8〜明治43)
明治25年、弘綱の門に入り、死後信綱についた。小説、新体詩、美文などに多彩な才能をしめしたが36歳で早世した。美貌の文学少女として早くから有名で、彼女の美貌と才能を惜しんだ漱石の追悼句「有る程の菊拠(な)げ入れよ棺の中」は有名。


18 ふとおもふ熱海の梅は末ならむさびしき人も一人見にけむ   新村出(明治9〜昭和42)
『広辞苑』の編者として知られる国語学者だが、作歌に熱心な人で、歌集も四冊ある。佐佐木信綱と友人同士だった関係で「心の花」に作品を発表。特に戦後は多い。提出作は、信綱の妻が死去したあとの作。


19 わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのリンゴ卓の上におく 片山広子(明治11〜昭和32)
明治29年、佐佐木信綱に入門。松村みね子の名でイエーツ等の翻訳も有名。タゴールの詩を最初に紹介したことでも知られる。芥川、堀辰雄らと交友があり堀の「聖家族」のモデル。「心の花」女流を代表する一人。近年、清部千鶴子『片山広子・孤高の歌人』が刊行された。


20 とほ鳴るやアベイの鐘に風落ちて土曜の夜の霧になりゆく   牧野英一(明治11〜昭和45)
長く東大法学部教授をつとめた刑法学者。提出歌は「心の花」六百号の自編歌でロンドンの歌である。長期にわたって会員で、発表されている作歌数も多い。


21 幾日来ていく日また行く旅ならむ曠野のはてに今日も日は落つ   斎藤瀏(明治12〜昭和28)
陸軍大学を出た根っからの軍人で少将にまでなるが、昭和3年済南事件で詰め腹を切らされ、二・二六事件に連座して軍人生活に終止符を打った。日露戦争従軍 中に書信によって信綱の指導を受け「心の花」に入会。昭和14年「短歌人」を創刊する。斎藤史の父。提出歌は第一歌集『曠野』(あらの)のタイトルとなっ た歌。


22 鳥うたはず木の葉そよがず清水かれし声なき谷にひとりある思ひ   橘糸重(明治12〜昭和14)
ピアニストとして第1回の芸術院会員になった人で、長く東京音楽学校教授をつとめた。島崎藤村の「家」に曽根として登場する。大塚楠緒子と並んで初期「心 の花」の代表的女流だが、歌集がないのが残念。


23 立山が後立山に影うつす夕日の時の大きしづかさ   川田順(明 治15〜昭和41)
明治30年、16歳で信綱に入門。信綱がもっとも信頼していた人物で、信綱死去のおりの葬儀委員長もつとめた。住友合資会社総務理事という実業界の中枢に いた実業人。戦後は「老いらくの恋」で知られもした。西行、実朝の研究は今日でも大きな仕事として評価されている。


24 ぽつねんと頬杖ついて暇あらばただあるべかり老いては殊に   角利一(明治15〜昭和40)
明治44年「心の花」に入会。石榑千亦の没後、「心の花」編集の実質的中心となって、戦中・戦後の困難な時期を支えた。提出作は「心の花」七百号の自選 歌。


25 やけ跡のつちもめぶきて青みたりほこなき国を春深みつつ   金田一京助(明治15〜昭和46)
アイヌ語の研究等に大きな業績を持つ言語学者。信綱の知人として、「心の花」にしばしば短歌を投稿している。提出歌は昭和22年8月「心の花」に発表され た戦後まもなくの作。


26 人間のいのちの奧のはづかしさ滲み来るかもよ君に対へば   新井洸(明治16〜大正14)
木下利玄、川田順とともに初期「心の花」を代表する歌人。前川佐美雄に強い影響を与えた。提出歌は、洸の代表作のみならず、大正期歌壇屈指の相聞歌であ る。


27 あかときは杉の群生にたゆたひて若草山は片明かりせり   安田靫彦(明治17〜昭和54)
小林古径、前田青邨とともに「院展の三羽烏」と称され、文化勲章も受けた著名な日本画家。作歌に熱心で歌集もある。信綱の歌集『山と水と』の題箋を書き (装幀は横山大観)、『作歌八十二年』の装幀をしている。提出歌は昭和21年10月号「心の花」の作で、「奈良にて」と詞書がある。


28 父の家嗣ぎてつたへよ孫曾孫(まごひこ)に亡びの子では無いといふこと   バチェラー八重子(明治17〜昭和37)
著者はアイヌ出身のキリスト教伝道師。提出歌を含む『若き同族(ウタリ)に』は、「心の花叢書」として昭和6年に刊行され、反響をよんだ。集中には、アイ ヌ語を片仮名表記した短歌もある。


29 見わたせばまさご路一里人たえて松にゆふ日のかげしづみゆく   相馬御風(明治16〜昭和25)
中学時代から竹柏会に入門、初期の「心の花」に熱心に投稿している。のち「明星」に入会、さらに岩野泡鳴らと「白百合」を創刊。「早稲田大学」校歌の作詞 者である。


30 踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前   柳原白蓮(明治18〜昭和42)
柳原伯爵家に生まれ、北小路資武と結婚するが離婚、ついで九州の炭坑王伊藤伝右衛門と結婚「筑紫の女王」とうたわれるが社会運動家宮崎隆介と恋愛、家を出 て社会をおどろかせた。近年、林真理子の小説『白蓮れんれん』が出た。提出歌を含む歌集『踏絵』は、竹柏会刊。



31 曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径   木下利玄(明治19〜大正14)
13歳の年に信綱に師事、「心の花」創刊時からの会員である。岡山県の足守藩の跡継ぎとなり子爵を継いだ。提出歌は大正14年1月号「心の花」所収の作。


32 ほほゑみて今日の一日も暮れけるよやごとなき身とめであがめられ   九条武子(明治20〜昭和3)
西本願寺大谷光尊の二女。大正5年に「心の花」に入会。提出歌は第一歌集『金鈴』の作で、特殊な立場にいる自身の孤独な内面 生活を、やや自嘲的にうたった独特の作である。


33 すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は   柳川隆之介(芥川龍之介)(明治25〜昭和2)
横浜の三渓園で知られる原三渓の息子・原善一郎が熱心な「心の花」会員で、芥川は善一郎の中学の同級生だった。そんな関係で、芥川処女短編「大川の水」が 「心の花」に載り、大正はじめに、短歌・旋頭歌等が載ることになった。


34 朝さめてきびしき寒さ天山に雪降りたりと言ふ声きこゆ   安藤寛(明治25〜平成5)
大正8年に「心の花」に入会。新井洸に師事、のち「あけぼの会」を通して千亦に学んだ。昭和3、40年代の「心の花」編集委員だが、雑誌経営の面 で大いに功績があった。提出歌は故郷・佐賀の天山をうたったもの。


35 冬深くすでに定めしもろもろの一つの位置のつはぶきの花   前田福太郎(明治25〜昭和49)
大正3年に「心の花」に入会。伊豆下田にあって晩年まで一貫して清新な歌を作り続けた。


36 武蔵野のくぬぎ林の新(にひ)わか芽のびゆく見つつわが世は経なむ   久松潜一(明治27〜昭和51)
長く東京大学文学部教授をつとめた著名な国文学者。作歌には熱心で歌集もある。信綱の三女と結婚。提出歌は、「心の花」七百号記念号掲載の自選歌。


37 夕波にのりしままなるかいつぶり島山かげはくらく暮るるに   山下陸奥(明治28〜昭和42)
住友合資会社の上司・川田順の関係で、大正10年に「心の花」に入会。昭和初期に「心の花」編集にかかわったが、昭和4年に「一路」を創刊した。提出作は 第一歌集『春』所収の作。


38 真裸になれども暑き昼下がり早期供出の米五俵かがる   椿一郎(明治29〜昭和55)
昭和7年「心の花」に入会。千葉県の農民で意識的に「農民の歌」をうたいつづけた。飯田恒治「機関士の歌」、梅沢千丸「金物屋の歌」とともに、戦後の「心 の花」の職業・生活の歌の作り手として独特の位 置をえた。


39 汝が命成りけんまへの世をかたれ心ふるへて見つむる母に   五島美代子(明治31〜昭和53)
大正4年に「心の花」に入会。早くから母性愛をうたった歌に特色をみせた。提出歌は昭和2年3月号「心の花」に発表された作。信綱夫妻の媒酌によって石榑 茂と結婚。


40 吹きたわめられつつ青き一むらの蘭が水面とともにゆれゐつ   栗原潔子(明治31〜昭和39)
大正2年16歳で信綱の門に入り、早く頭角をあらわし、当時としては例外的に早い22歳で、第一歌集『潔子集』を刊行。小説を書いた時期もあった。昭和 20年代終わりから「心の花」編集委員。


41 見る夢の夢の形をなさず覚めあかときはやく聞く鳥の声   五島茂(明治33〜)
石榑千亦の三男。美代子と結婚して五島家に入る。父の関係で早く「心の花」に作品を発表。昭和13年に美代子とともに「立春」を創刊する。


42 沓掛の古き宿場のつばくらめ今年もちちと鳴き遊びをり   時枝誠記(明治33〜昭和42)
『言語過程説』で知られる国語学者。昭和21年8月号「心の花」にこの歌ただ一首が載っているのを偶然見つけた。探してみたが、ほかに一首しか見つからな かった。


43 潔浄の島となすべし夜の更けを月の光の地に沁み透る   岡野一市(明治35〜昭和62)
昭和23年に「心の花」に入会。広島県の因島に住んでの故郷の風土に根ざした作は、多くの愛読者を持った。提出作の「島」もむろん、因島である。


44 たれいふとなく 白い花いけてゐるときを恋した   児山敬一(明治35〜昭和47)
昭和2年「心の花」に入会。口語自由律短歌を積極的に押しすすめ、昭和5年、津軽照子らと「短歌表現」を刊行する。哲学が専門で東洋大学教授等を歴任し た。


45 ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる   前川佐美雄(明治36〜平成2)
大正10年に「心の花」に入会。昭和9年に「日本歌人」を創刊した。提出歌は昭和5年6月号「心の花」掲載の作。シュールレアリスムとナンセンスの歌で、 『植物際』にもむろん収録されている。


46 しどけなく物思ふ春を谷かげの蛇やとかげとわが犬は遊ぶ   富岡冬野(明治37〜昭和15)
大正8年16歳で「心の花」入会。大正13年、二十代に入ったばかりの第一歌集『微風』は独特の感覚で注目された。乗馬服に鞭を持った馬上の美少女、京都 の町で彼女のそんな姿が見られたエピソードを、遠山光栄が書いている(昭和39・4「心の花」)。三十代半ばの死を惜しんで、片山広子、斎藤史らによって 歌文集『空は青し』が刊行された。富岡鉄斉の孫。


47 川床を相打ち相ふれ流れ来て小石みなまろく個性うしなふ   伊藤嘉夫(明治37〜平成4)
昭和4年「心の花」に入会。信綱のそばにあって、昭和一桁の終わりから10年代にかけて「心の花」の編集に関わる。西行の研究で知られる国文学者。提出歌 は、「心の花」七百号記念号掲載の自選歌。


48 白猫も青磁の壷もかがやけばかかる夜擾乱はたやすく起きむ   真鍋美恵子(明治39〜平成6)
昭和元年「心の花」入会。昭和3、40年代「心の花」編集委員をつとめる。『玻璃』によって現代歌人協会賞。硬質、感覚、非現実といったキーワードで語ら れる独特な作品世界を開示して歌壇的にも活躍した。


49 いまはもう心動かすことはなき日暮れぞじつと雲を捉らへゐて   保坂耕人(明治42〜)
昭和7年に「心の花」に入会。山梨県甲府にいて故郷の風土をうたってきた。昭和49年から「心の花」編集委員。提出歌は、石川一成の「保坂耕人小論」 (「心の花」1001号)で推賞している作。


50 目とづれば眼前に痴呆の童子居て吾を嘲り時に吾なり   佐佐木治綱(明治42〜昭和34)
信綱の三男。昭和28年から「心の花」の編集兼発行人となる。著書に『永福門院』等がある。五十歳の若さで死去したが、晩年の作は遺詠である提出歌のよう な思索的な方向に行っている。


51 花が水がいつせいにふるへる時間なり眼に見えぬものも歌ひたまへな   斎藤史(明治42〜)
『魚歌』(昭和15)所収。歌うとは、こういうことなのだと思う。眼に見えるものだけでなく、その奧のふるえを感じることなのだと。


52 春の雲ほのかにむすびまた消ゆるま空がうへに見入りてひさし   中山昭彦(明治43〜)
『伐折羅』(昭和61)所収。ゆったりとした時間、おおらかな空間。せかせかした現代人とは異なる時計を、作者は体内に持っている。


53 落下する滝はひたすら両端の白盛りあがり盛りあがり見ゆ   遠山光栄(明治43〜平成5)
「心の花」(昭和57年3月)掲載。生き物のような滝のすがたである。下の句のリフレインのリズムが、そのまま滝のリズムとして伝わってくる。


54 曼陀羅の一夜みつめし朝にして飯はむわれは他人のごとし   小城正雄(明治43〜平成8)
心を異界にあそばせたのちの、日常への違和感。朝ごはんを食べる自分を、遠くから見ている自分がいる。


55 金魚の本借りてきた朝から金魚の病気つぎつぎいでて日々ただならぬ   木尾悦子(明治44〜平成2)
『驟雨の中の噴水』(平成9)所収。独特の自由律が持ち味の作者。本を読まなければ、病気とも思わないのに。


56 お天気に左右され易くなりし身に梅雨明にけり秋立ちにけり   島綾野(明治45〜平成2)
青空が嬉しい、涼風が心地よい……そんな表面的なことではなく、身体の芯で感じる季節感。二つの「けり」の重みと、それが生み出すリズムと。


57 墓村は五月の海にまむかへり風吹き絶えず昼顔をゆる   林大(大正2〜)
静かな描写のなかに、「生」がきらりと光る。墓村から海へ、そして海から昼顔へ。読者の視線も、風のように揺れる。


58 覚えきて使ひてみたき言葉あまた貯へて子の背丈伸びたる   佐佐木由幾(大正3〜平成23年)
『半窓の淡月』(平成元)所収。心の成長とからだの成長とが、子どもの中で響き合っている。そのことをまぶしく見守る、あたたかなまなざし。


59 枯れいろの芦はてしなき野づらにて木曽も長良も海遠からず   村田邦夫(大正3〜)
佐佐木信綱のそばにあって、研究、著述をたすけた作者。叙景の歌としても十分読めるが、全体が学問の道の比喩のようにも思われる。


60 なき人に傾く闇をしんしんと支配してゆく花の匂いよ   森本秀子(大正6〜)
『補液の章』(昭和60)所収。闇は、作者の心そのものでもあるだろう。目に見えるものは何もない世界だが、不思議なほど鮮やかな印象が残る。



61 春の野に光みなぎり若草をまさぐれるわが瞼明るき   田中長三(大正7〜)
『二葉ぐさ』(昭和31)所収。目の不自由な作者が、心の目で見た瑞々しい自画像。「まさぐれる」という動詞の重み。


62 正座してついにしびれを知らざりし我が足今はしびれつぱなし   鶴見和子(大正7〜平成18年)
「心の花」(平成9年9月)掲載。老いをテーマにしながら、軽やかな歌いぶり。言い放つような結句が、淡いユーモアを漂わせる。


63 人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら   竹山広(大正9〜平成22年)
『とこしへの川』(昭和56)所収。被爆を原体験として歌いづづける作者。無言で消えていったてのひらが、語りえなかった言葉が、ここにある。


64 蝶の眼に見えてわが瞳に見えぬものこの世に在りて闇に入る蝶   築地正子(大正9〜)
『みどりなりけり』(平成9)所収。蝶の眼を感じられる独特の感性。この作者なら、蝶と同じものを見ることができるのでは、とも思う。


65 繃帯の指気にしつつノートする子を標準にすすむる講義   土屋行雄(大正9〜)
「心の花」(昭和33年12月)掲載。このさりげない心遣い、生徒は気づいていないだろう。それでいい。長く教壇に立つ作者の姿が、目に浮かぶ。


66 銀の匙を当つる苺のシャーベット君との終の晩餐とも知らず   小金井純子(大正10〜)
『三樹』(平成10)所収。心はずむ午餐が、別れの場面になろうとは。その日の自分を、遡って現在形でとらえた視線が、悲しみを深く伝える。


67 気まぐれの秋のひざしは続かねば音より早く濡らしゆく雨   巌光重(大正12〜)
『越の四季』(平成4)所収。しっとりとした秋の雨。降る、というよりそれは、ひざしや空気を濡らしてゆくもの。第四句の的確さ、美しさ。


68 機関車の前輪脱線旅客無事旅客無事とふしらせに緊張ゆるむ   北山寛子(大正12〜)
『むらさき』(昭和48)所収。国鉄職員の夫を持つ作者。客観的な「旅客無事」から温かな「旅客無事」へ。重ねた漢字の変化の妙。


69 かまきりを葬る遊びを終えし児ら戸口戸口へ姿を消しぬ   荻野美佐子(昭和2〜)
『ひらがなの手紙』(平成3)所収。わらべうたの中にひそむ恐ろしいフレーズに気づいたときのような、読後感。一首の後の深い静寂。


70 きみや鏡われまた鏡うつしあふ歪みて定かならざる影よ   玉井慶子(昭和2〜平成23年)
『夏籠』(平成6)所収。恋愛は、互いが鏡となって映し合う、永遠の世界。そこに映るのは、実像か虚像か。晶子を思わせる情熱の一首。


71 風を従へ板東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か   石川一成(昭和4〜昭和59)
『麦門冬』(昭和50)所収。自然と対峙しつつ、自然と一体化する作者。板東太郎(利根川)は、原風景として心に流れている。


72 緑みどりの樹間にすらりと夕暮るる片山広子に似しという沙羅   宇都宮とよ(昭和5〜)
『エルキャピタンの雲』(平成7)所収。漢字と仮名の使い分け、すらりと夕暮るるという描写 、そして固有名詞の塩梅。精緻な言葉の連なりが魅力。


73 孤にかへる冬となりたり蜂蜜が瓶の底より結晶しはじむ   鈴木陽子(昭和5〜)
『乳果』(平成9)所収。互いの境界なくトロリとしていた蜂蜜が、ひんやりと結晶してゆく。そのことを冬の象徴として捉えた初句が印象深い。


74 天界の小暗きかの日失ひし鏡はどこに何映しゐむ   久家基美(昭和7〜)
「心の花」(平成9年4月号)掲載。一首の中で変幻自在の鏡。それは歴史の中で失われた真実か。あるいは作者自身の分身か。


75 一日を共に働きし馬の背に流れし汗の塩かたまれる   石川不二子(昭和8〜)
『牧歌』(昭和51)所収。農に生きる暮らしの中から生まれる歌の数々は、まさに作者の汗から生まれた塩のようである。


76 卑怯なる逃避あるひは成行きに任す勇気を言ひて目を閉づ   白石研蔵(昭和8〜平成23年)
『長髄彦が裔』(平成7)所収。男らしさを考えることは、男のつらさを考えること。何もしないことの卑怯と勇気と。


77 オホーツクの海を見て立つオホーツクの海もまた見よこの我が姿   今泉進(昭和9〜)
『冬の雷郎』(平成8)所収。見ることは、見られること。小さな自分と大きな海においても、その関係は対等だ。


78 海に来ても海の匂ひのせぬ浜よああ中立的な思想は非ず   西田郁人(昭和9〜)
死の灰を浴びた福竜丸を詠んだ一首。あえてナマな感想を記した下の句を、上の句の描写 が支えている。


79 鮮紅の魚卵のぬめり光りながら夕日は沈むビルのはざまに   塩川郁子(昭和10〜)
「心の花」(平成4年8月号)掲載。生命の詰まった魚卵と、沈みゆく夕日との鮮やかな対比。魚卵が、無数の日の出の太陽のようにも見える。


80 咲きあふれ光を呼びて馬鈴薯の花の大地は天と向き合う   高辻郷子(昭和12〜)
『農の一樹』(平成9)所収。北海道に根を張って生きる作者。そこに生きる者ならではのスケールの大きな自然詠が魅力だ。


81 火も人も時間を抱くとわれはおもう消ゆるまで抱く切なきものを   佐佐木幸綱(昭和13〜)
『瀧の時間』(平成5)所収。抽象的な「われのおもい」が、一行の詩として直立するとき、言霊の力を感じさせられる。


82 血の匂いは鉄錆の匂い鮮明に傷口が持つ言葉なりけり   伊勢勇(昭和14〜)
「心の花」(平成7年12月号)掲載。「おまえの中の何かが錆びているぞ」とでもいうのだろうか。肉体の、確かさと不確かさ。


83 ふるさとの母にねだらん牧水の椎の実の歌うたう静か夜   松井千也子(昭和15〜)
「心の花」(平成3年5月号)より。人の心を最も癒してくれるのは、母に繋がる記憶なのかもしれない。下の句の何でもなさが切実さを際立たせる。


84 薔薇のあをき棘いつまでも抜いてゐる生にも死にも満たされぬまま   持田鋼一郎(昭和17〜)
『夜のショパン』(昭和63)所収。ロマンチストの横顔に、深い孤独の影がさす。但しただのロマンチストには「死にも」とまでは言い放てない。


85 二日酔いの無念極まるぼくのためもつと電車よ まじめに走れ   福島泰樹(昭和18〜)
『バリケード・1966年2月』(昭和44)所収。無頼を生き、日常への苛立ちを歌う。理不尽な命令形に、説得力を持たせる言葉の強さ。


86 おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを   伊藤一彦(昭和18〜)
『瞑鳥記』(昭和49)所収。鳥の翼の自由をただ羨むのではなく、目には見えない内臓を思う心。生きることの比喩ともいえる一首。


87 昨夏はボクシングのまねしてたわむれしまま抱擁をとかずにいしを   晋樹隆彦(昭和19〜)
『感傷賦』(昭和59)所収。戯れから抱擁へ、昨夏から今夏へ。愛にまつわる二つの時間の流れが、せつない。


88 山脈の小さき谷のわれの灯を夜間飛行の誰か見出でよ   斎藤佐知子(昭和19〜)
『風峠』(平成6)所収。ささやかにして切実な願い。「誰か」はさまざまに読むことができる。いつか出会う恋人とも、歌を読んでくれる誰かとも。


89 さくらさくらさくらさくらと水の輪の広ごるやうにとほくまで見ゆ   足立晶子(昭和19〜)
『ゆめのゆめの』(平成7)所収。近景から遠景までを埋め尽くす桜。視線の動きが、一首の流れの中で自然に形成される。さりげなく巧みな技。


90 銀河系、その創まりを思うときわが十代の孤り晶(すず)しも   小紋潤(昭和22〜)
「心の花」(昭和59年6月号)掲載。宇宙も、はじめは孤独だった。その孤独と響き合う十代の心。スケールの大きな一首だが、豪快さよりも繊細さを感じさ せるところが作者の持ち味だ。


91 秋口の調剤薬局の受付にこの世を過ぎたる我が骨ぞ立つ   大津仁昭(昭和33〜)
『故郷の星』(平成8)所収。作者の目は、地球と似て非なる星を見つめているかのようだ。上の句の具体性が、下の句の不思議さを支える。


92 傍らで幼き日々を眠りおるおまえ世界はやがて朝だよ   谷岡亜紀(昭和34〜)
『臨界』(平成5)所収。呼びかけることが、相聞歌の原点。やがて朝となる世界と同じ重みで、2人の「世界」がある。


93 おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光水ヲ下サイ   岩井謙一(昭和34〜)
「心の花」(平成7年5月号)掲載。結句から私は、原爆の被害者を思い浮かべた。その日の苦しみは消えることなく、今も宇宙を走っているのだと。


94 他愛なきいさかいなれど徒らにこと荒立てし夜の湯豆腐   黒岩剛仁(昭和34〜)
「心の花」(昭和60年2月号)掲載。わかっていても、ムキになってしまう。湯気の中から、いさかいを見ていた湯豆腐のリアリティ。


95 愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う   俵万智(昭和37〜)
『サラダ記念日』(昭和62年)所収。何気ない流行歌の歌詞に、ひっかかる心。会話体の導入が定型と口語をなじませている。


96 水仙の香りがすいと立ち上がる例えばそんな人だあなたは   矢部雅之(昭和41〜)
「心の花」(平成9年3月号)掲載。おとなしい姿だが、香りは強く主張する水仙。繊細な上の句を受けた大胆な下の句には、恋に落ちる自分への驚きがにじ む。


97 つらぬきて沢流るると思ふまで重ねたる胸に蛍をつぶす   大口玲子(昭和44〜)
どれほど強く抱きしめてほしい? そんな問いかけへの答かもしれない。二人の胸を沢が貫く程。そしてそこを飛ぶ蛍がつぶれる程。


98 生態学の講義聴くたび思うこと にんげんと言えばしりとり終わる   田中章義(昭和45〜)
『ペンキ塗りたて』(平成2)所収。若者らしい感覚の溢れる下の句。生態系の尻取りをもストップさせてしまう可能性が人間にはある。


99 張りつめてゐたる水面に葉の降(お)りて葉のかたちなる波紋ひらけり   横山未来子(昭和47〜)
「心の花」(平成10年2月号)掲載。きめ細かな観察と詩的な描写力が魅力の作者。H音の静かな重なりが、波紋のように心に広がる。


100 ピバリとう美しき語彙もつ島の春のピバリと別れ来にけり   丁田隆(昭和47〜)
民族学の学徒でもある作者。ピバリの意味が明らかにされないところが、一首の魅力。まっさらな心で、私たちはこの語を噛みしめる。



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